今のために今を生きる

私はこれまで
未来の自分のために、と「今」を犠牲にしてきた。

中学の頃、めちゃくちゃ嫌いだった部活は、内申のために辞めなかったし、
高校では指定校をとるためにテスト休み期間も友達とのカラオケは行かなかった。
高校は親に決められた行きたくない高校だったけれど、
首都圏にいた方が将来のためにいいだろうと思って反抗しなかったし、
(言う通りにしないなら大阪に引っ越すからついてこいと言われていた)
会社員になりたいなんて思ったことなかったのに、ちゃんと就活もした。

何を被害者ぶってる、世の中の大半の人がそうだろう。
と思ったかもしれない。

そう、世の中の大半が
「将来のために」と今を犠牲にして生きている。

もちろん、
そういうことが大事な場面もあるし、
どうしてもそうしなきゃならないこともある。

例えば、将来やりたいことを叶えるための努力とか
もっと小さいことで言うと、海に行くためのダイエットとか。

そういうのは必要だと思うし、
未来の自分がいい気分になるためのことだから、
むしろ“いい犠牲”だ。

でも、果たして
いつ何時でも「将来のために」生きることは
本当に幸せだろうか。

そうやって
過去の自分が我慢をしてくれて作られたはずの、
あの時の自分にとっては未来の自分だった、「今の自分」は
過去の自分が用意してくれた幸せを噛み締めることなく
またさらに未来の自分のために、今を犠牲にしている。

そうやっていつだって
将来のために今を犠牲にして生きていたら
果たしていつ、幸せであるはずの「未来の自分」になれるのだろうか。

「将来のための今」を積み重ねて続けているうちに
歳を重ねて
その先に待っているのは、死という名の「無」だ。

「将来」がずっとあるような気がするから
今を犠牲にするけれど
今を犠牲にしたら手に入れられると信じている「未来」は
必ず手に入るかわからない

人はいつか必ず死ぬ。

人生とは「今」の連続でしかない。
「過去」も「未来」も、本当はどこにも存在しない。
ただ「今」この瞬間、存在するということが
ただひたすらに、続いているだけである。

人があると信じて疑わない未来は
本当はどこにも存在しない、ただの幻想だ。

「今」がこの先も続いていく確証なんてどこにもない。
この瞬間に終わるかもしれないし、
あと100年間連続しているかもしれない。

「未来のための今」を積み重ねても
「今のための今」を積み重ねても
同じように人生はいつか終わる。

終わりの瞬間、
果たしてどちらの人生が幸せだろうか。

将来のために、将来のために、と言ってお金を貯め続けても
使わなければいつか死ぬ時が来て、何の意味もなくなるのと同じだ。

お金は天国へは持っていけない(地獄かもしれないがそれは置いておいて)。
「未来のために我慢した今」の貯蓄も
死んでしまえば何の意味ももたない。


受験勉強がおわったら遊ぼう
就職活動が終わったら旅行に行こう
会社に慣れたら休みを取ろう
退職したら行きたいところに行こう

そう言って
やりたいことや休むことを後回しにしていたって

いつまで待っても「できない理由」はいくらでもわいてくる。

受験勉強が終わったって勉強しなきゃいけないことはなくならないし
就職活動が終わったって会社は入社前課題を出してくるしお金もない。
会社に慣れた頃には責任あるポジションについてもっと休めなくなっているし
退職したら好きに動ける体力なんてなくなっている。

「今」のために今を生きたい。
先のためじゃなく。未来のためじゃなく。

今の自分が、楽しいと思うことをするようにしたい。
未来の幸せのために
今幸せになることを我慢したら
どこまでも幸せじゃない「今」が続くだけだ。

反対に
今のためだけに生きていたら
将来後悔するなんて大人たちに擦り込まれた幻想だ。

「今、楽しい」の積み重ねの先にあるのは
楽しいの連続の人生だ。


将来後悔したくないから
今を犠牲にするのじゃなくて
死ぬとき後悔しないために
今、楽しいかどうかを、大切にしようと思う。

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なな@ばななちゃんねる
24歳/新卒2年目の会社員/エッセイスト,コラムニスト/早稲田大学文化構想学部卒業/趣味は美少女鑑賞です