子どもを尊敬するということ
「尊敬」・・・他人の人格や行為を高いものと認め、頭を下げるような、また、ついていきたいとおもうような気持ちになること。うやまうこと。
子どもを尊敬するということについて考えてみたい。
1.未熟
子どもは未熟な存在だ。社会的にも精神的にも無限の可能性を秘めているが、知識がなかったり、考える力が弱かったりして、大人から見ればまだまだ未熟なところが多い。
でも、数年ぶりに会うと、想像もつかないほど外見も内面も成長していることは珍しくない。
よく「他人の子どもは成長が早い」などと言うが、まさしくこのことを端的に言い表している。
2.自立とは
ここでは、社会的な自立と精神的な自律を含めて「自立」とする。
社会的な自立。それは以下の2つ。
①自分で食べていけるようになること
②社会と調和して暮らしていけること
精神的な自立。それは以下の2つ。
①自分自信を認め、自己肯定感が高まっていること
②自分の周りの人を信頼できること
それぞれを促す援助をしていくのが教育だ。必要以上に介入して強制的に行動させるのではなく、子どもが自立できるよう手立てを考えて働きかけていく。それが大人の役割だと思う。
教育においては、そういった大枠の中で、子どもに幸せになってほしいという思いをもって子どもと関わっていく。それは、我が子に対しても、教え子に対しても同じだ。
でも、(僕は・先生は・パパは)思うことがある。
子どもを尊敬することができるかどうかが教育の重要なカギになるだろうと。
その点については、次で述べたい。
3.尊敬する
子どもを尊敬するとは、子どもをそのまま見ることだと思っている。
例えば、プラレール(電車のおもちゃ)で遊んでいる子がいたとする。
その子を見たときに、
電車が好きなのかな?
新幹線のデザインが好きなのかな?
踏切で電車が来るのを心待ちにすることもあるのかな?
電車を見るために駅に行ったりするのかな?
そういえば、この前バスに乗ったことを嬉しそうに話してくれたよな。
動く乗り物が好きなのかな?
乗り物のどんなところが好きなんだろう?
みたいなことを想像しながら見ることを言うんだと思う。
その子の気持ちを想像しながら、対話をして理解しようとする姿勢が「子どもを尊敬する」ことなんだと思う。
言い換えると、子どもの関心に関心をもって子どもを見ること。
そうするとかける言葉も変わってくる。
「宿題やりたくなーい」などと言う子どもに対しても同様だ。
なぜやりたくないのか
やって良かったと思う経験がないのか
難しすぎてやりたくないのか
面倒な理由は何なのか
ゲームをやりたい気持ちが勝っているだけなのか
そこで、「いいから早くやりなさい」という言葉を選ぶのか、「そっか、やりたくないのか。どうしてやりたくないのか教えてよ?」という言葉を選ぶのかによって、未来は変わってくる。
どちらも、大人側としては子どもが宿題に向かうことが行動面のゴールなのだが、アプローチの方法は選ぶことができる。
前者は大人の都合で子どもを見ていて、後者は子どもを理解しようとする姿勢の表れだ。
忙しい大人にとっては、正直めんどくさいと思うことはあるだろう。でも、その気持ちは、子どもへの尊敬を欠いた大人の傲慢だと思う。一人の人間として向き合おうとする姿勢こそが子どもを尊敬するということなのではないかと僕は思う。
それに、叱責しても、その時は通用するが、次第に慣れて子どもは乗り越えるようになる。だから、長期的に見ると怒るという方法はあまりコスパがよくない。
子どもがどんなことが好きで、何に興味があるのか。子どもと一緒に楽しんで本気で喜べる大人になりたい。
指導はそのあと。
小学校教師、パパとしての立場から発信し続けていきます!これからもよろしくお願いします!