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【インドの音】感覚を使って生きること

数年前、新卒でコンサルティング会社に入社し、働き始めたときの話。

旅が好きで、各地を放浪としていた私はまだ、コンサルタントとして、大企業に常駐しながら働くことの意味が分からなかったのです。

1年目の8月には初めての海外出張でカンボジアに行ったけれど、卒業旅行でも行ったはずのカンボジアが、全く違う国のように見えました。

スーツを着て、パンプスをはいて、グローバル展開しているホテルに泊まる。

上長の様子を見つつ、スケジュールを管理し、ディナーの場所(お好みは日本食)をアレンジ、運転手とのやり取り、すべてが仕事でした。

プノンペンからバスで6-7時間の田舎で、学校建設のボランティアをしたときとは見えるもの感じるもの、すべてが違うもののよう。


逃げるようにして、はじめての有給でインドに行った

思い切って行ってしまった、3度目のインド。

その夏は、2回も出張でカンボジアに行ったのに、よくもまあ、もっと疲れそうなところに行くね、と飽きられつつも、1年目でまだいろんなものの荷が軽いうちに、と思って行ってしまったのです。

初めてインドに行ったのは、その前の年の11月なので、1年たたずして3回も行ったことになります。

「はまった」とはこういうことか。

なぜこんなにもインドに行きたくなるのかわかりません。
インド人とよく仲良くなるとか、いろいろあるかもしれないけど、そうしたつながりがあるのも、なにか、自分に通じるものがあるからなのでしょうか。

マハラシュトラ州にある、ガンジャードという村に行きました。
その村への訪問は、2度目。
前回は乾期で、今回は雨期。

乾期の茶色く砂っぽかった村が、全く違う場所のようになっていました。
緑が生い茂っていて、見るだけで水っぽい、生命の力を感じる場所になっていました。


雨期の生い茂ったジャングルの中で、五感が覚醒した気がした

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「野生の感覚」を取り戻す、とはこういうことなのでしょうか。

普段、日本ではイヤホンをつけて、携帯の画面をみて、感覚を殺して生きてきたのかもしれません。

感覚が覚醒した瞬間がありました。

「草のざわめく音がする」

誰かのひとこと。

驚くことに、その言葉を聞くまで、私にはそのざわめきが聞こえていなかったのです。
いや、聞こえていたかもしれないけど、全く意識していなませんでした。

その後から。いろんな音が聞こえてきました。

スパイスの微妙な違いに気をかける。
裸足で土を踏みしめる。
暖かい湧き水に触れる。
冷たい水の流れに身を任せる。
太陽はとても暖かい。
雨が運んでくる生ぬるい空気。

感覚が蘇る。


満員電車の音は聞こえない

あっという間に帰国する時が来て、出社しなければならなくなりました。

いつものように、イヤホンをつけて、電車へ。
まだ残る鋭い感覚が、違和感を伝えます。

イヤホンの向こうから聞こえる足音、ざわめき、虫の声。
すべてが驚くほど鮮明でした。

あれ、私は普段、どれほどの感覚を殺していたのだろう。

感覚をちゃんと使えば、日常はものすごい刺激にあふれているのです。
普段、いったいどれだけの感覚を無視しているのだろう。

今のこの冴えた感覚は、このコンクリートジャングルでどれほど持つかわからないけれど。


共感覚を持ったアンジェリー

ふと、ある人のことを思い出しました。

イスラエルのキブツで出会ったフランス人の女の子、アンジェリー。
彼女とは馬が合い、二人で毎日プールにいきました。
よく一緒にビールを飲んで語り合って、散歩して、10人ほどいるボランティアの中で一番仲が良かったかもしれません。

彼女は変わっていました。

一人で異国にいるのにもかかわらず、携帯も、クレジットカードも持っていないのです。
Facebookもやっていないので、彼女と今、連絡をとるすべはありません。
彼女がボーイフレンドと連絡を取るのに、私のiPhoneを使ったから、その履歴を使えば、ひょっとしたらたどりつけるかもしれないけれど。

でも、きっとむずかしいし、そんなに無理に探さないといけない気もしない。

彼女は、五感以上の感覚を持っていました。

彼女は数字を見ると色が浮かぶといいます。
そして、数字を早く、そして長く記憶します。

人の名前や道はすぐ忘れる。
だけど、久々にあった人の携帯番号は覚えているのに、名前が思い出せないこともあるといいます。

おかしいよね、といって笑っていました。

数字は色が共にあるから、おぼえられると言います。

彼女はパリでアートを学んでいました。映像専攻。
彼女が持っていた唯一の電子機器がビデオカメラ。
音楽もレコードで聴くから、旅のときは聴かないらしいのです。


今思い返すと、彼女とは、ちゃんとさよならも言いませんでした。
いつもと変わらない、日常があっただけ。
さよならがあることを自然に受け止めていたのかな。

会える時が来たら、また会えるような気もするし、でも一生会うことがないかもしれません。
彼女が有名なアーティストになったら、目にすることがあるかもしれません。

私にない感覚を持ったひとでした。



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