メディアが「ひろゆき」を持上げてきた罪深さについて
10月3日に、辺野古基地を訪れたひろゆき(西村博之)氏が「新基地断念まで座り込み抗議 不屈3011日」と書かれた看板の隣で写真を撮って「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」と投稿したツイートが大きく議論を呼ぶところとなり、9日時点でこのツイートが4.6万リツイート、28.3万いいねを獲得している。
もちろんリツイートや「いいね」は必ずしも賛意を表明するものではないため、この数字と同じだけの同意が集まっているわけではないのは大前提としても、ひろゆき氏のこの行動に関して、非常に多くの人々が関心を寄せていることがわかる。
生放送の番組で「有識者と議論」のはずが
さらにこの件で7日、同氏が毎週金曜日にMCを務めるテレビ朝日系の報道番組『AbemaPrime』内(ひろゆき氏の辺野古基地訪問に同行していたのも、同番組)で「抗議の声をどう発信? ひろゆき&せやろがいおじさん」という特集が組まれ、生放送でひろゆき氏、アナウンサー、番組コメンテーターたちが、特集ゲストとして招かれた有識者たちと議論を交わす一幕があった。
ただし実際に番組内で起こったことは到底「議論」と呼べるようなものではなく、ひろゆき氏やコメンテーターらが、ただ屁理屈をこねくり回して有識者からの批判や指摘をかわし続けたり、的外れな返答をしたりするだけのひどい有様であった。
ここで交わされたやりとりの問題点については後述するとして、この番組の放送後にはTwitterでも様々な意見が飛び交い、結果「ひろゆき」「座り込み」という言葉がトレンド入りを果たす事態となった。
「ひろゆき」を放置してきたことの功罪
まずはじめに、私がこの件に関して意見を述べる前に、反省しておかねばならないことがある。少なくともメディアに携わる仕事をしておきながら、さらには言論人として活動している身であるにもかかわらず、これまで「ひろゆき」が無根拠で、偏見じみた、ときには事実や実態に反するような言動をし、大衆の憎悪を煽り、嘲笑的な振る舞いを行うのを「関わりたくもない」と無視し、多少の言及はしたとしても、徹底的に強く批判したり、制止したりしてこなかったこと。
私だけでなく、近い業界にいる、発信力のある人々がみな同様に彼を無視するか、あるいは逆に彼を持ち上げ、人気にあやかり、時には擁護し、甘やかしてきてしまったこと。
さらに「ひろゆき」の持つ影響力や数字に惑わされたメディアたちが彼に「発言力」を与え続けるのをわかっていながら看過し、放置してきたこと。
結果として「ひろゆき」がメディアのお墨付きを与えられ、社会に向けて彼の発信が「正当性」を帯びているように見せたり、まるで「正論」であるかのようにまわりが演出したり扱ったりしてきたことについて、私たちを含めたメディア関係者が持つ責任は非常に重い。
真っ当な批判があっても、親しい著名人が擁護する始末
直近でも、役者の香川照之が、以前クラブのホステスに性加害をはたらいていたことがニュースになったとき、ひろゆき氏は自身のYouTubeの切り抜き動画をシェアしながら「キャバクラなど風俗は、性的被害や嫌な思いをする事で高い給料が貰える仕事です。セクハラが嫌なら風俗で働くべきではない」とツイートした。
たとえひろゆき氏自身が作ったものではないとしても、彼が確認したうえでシェアした動画のサムネイルには「被害者のホステスは自業自得」という扇情的な言葉が書かれている。
彼がやったことはキャバクラ等で働く女性への偏見を助長させ、性被害を「自業自得」と矮小化し、被害者にとってはセカンドレイプにもなる行為であり、当然、多くの批判が集まった。
しかしそんな騒動のなか、彼と普段から親交のある著名人が「ひろゆきさんは決して『キャバ嬢には何をしてもいい』と言っているわけではなく、『現実にそういうヤバい客がいる以上、お金のために仕方なくやっている人がいるなら生活保護がありますよ』と、いつもの主張を繰り返しているだけだと解釈した。違ったらごめん。」と擁護しはじめ、さらにはひろゆき氏自身もそれに便乗して「●●さんの書いた通りなんですけど、読解力の少ない人が多い昨今です。」と発言している。
このように、これまでもずっと「ひろゆき」は周りにいる誰からも咎められることなく、真っ当な批判が向けられても身内に庇われ、メディアでは数字を持つ人間として重宝され、持て囃された結果、権威が与えられてしまったといえる。かつてはただの「ネットの書き込み」として相手にされなかったような危うい言論ですら、現実の世界において「相当の価値があるもの」として影響力を発揮してしまっているのが現状である。
強者側に立つ者が「抗議運動」を茶化し、揶揄することの罪深さ
話を戻すと、とりわけ今回の問題でカギとなっているのは「辺野古基地に賛成か、反対か」「辺野古での座り込み運動に賛同するか、そうでないか」といったことではない。
わざわざ抗議運動の場に出向き、(工事をしている時間帯でなかったために)人がいないことをあげつらって「(自分たちがイメージしている)座り込みをやっていない」「僕たち日本の多数派にも(座り込みは24時間行われているわけではないこと、看板に書かれてある日数が「連続」ではなく「合計」であることが)わかるように説明してくれないと誤解が生じる」だのと屁理屈を並べて、自分たちがこれまで全く関わろうとしてこなかった問題に声を上げ続けてきた当事者に対して、外側からずけずけと、彼ら彼女らの抗議する権利を侵害し、邪魔し、その顔を踏みつけたことが問題なのだ。
このように、問題の当事者やその支援者として抗議活動を行う人々に対して、強者側に立つ人たちが「共感できる弱者」であることを求め、その理想の弱者像に当てはまらない当事者の声を抑圧し、排除しようとする光景は決してめずらしいものではない。
辺野古基地の問題だけでなく、貧困問題や外国人差別、女性差別、性的少数者への差別の問題に於いてもよく見られることである。
「お前たちにはまだ余裕がある、助けて欲しいならもっと努力しろ、もっと色々なものを犠牲にしろ、もっと手放せ、もっと汚い格好をして、もっと我慢しろ、もっと謙虚で、か弱げに振舞っていろ。そしてお前たちが大衆に受け入れられやすいように、理解してもらいやすいように、不勉強な自分たちにもわかりやすく説明して見せろ。そうすれば認めてやってもいい。」
あの生放送のスタジオ内で行われていたことは、まさにこうしたことであり、そのあまりのグロテスクさに、途中から頭を抱えてしまうほどであった。
次々と論点をすり替え、番組側の面々が議論のスタート地点にすら立とうとしないあの場で、ひろゆき氏に対して「『俺にわかるように説明しろ』じゃなくてもっと勉強してください」と冷静に言った沖縄タイムス記者の阿部岳さんは本当にまともであったと思う。
そして沖縄のアメリカ軍基地問題を取材するジャーナリストの宮原ジェフリーいちろうさん、沖縄でYouTubeなどで発信を続けるせやろがいおじさん氏らも同様に、有識者として招かれた3人がいずれも怒りをこらえつつ、番組側が用意した議論の場に極めて冷静に、真摯に向き合おうとしていたにもかかわらず、結局は誰もひろゆき氏の暴走を止められず、あろうことか彼を擁護し、同調してさらに暴力的な発言を次々と行なったことは、本当に残念でならない。
「座り込みというと24時間やってるイメージがあるから、実際に違うなら、そうやって書いておいてほしい」「(辺野古基地で座り込みをしている人たちは)刑務所の中などかぎられた手段しか取れない人にくらべて特権性を持っている」などと言う話を、そして「『(阿部さんが)ひろゆきさんが嗤うのは、多数派にいるという安全意識からだ』みたいなこと仰ったじゃないですか。でもひろゆきさんって、普段から人の悪口いうとき笑うんですよ。これはひろゆきさんが自分の毒を中和するつもりで笑うんだと思うんです。今回の件も『これは反感買いそうだから笑顔でごまかしとこう』と思って撮ったんじゃないかと思う。そういう行き違いがあったんじゃないか」というような擁護を、30分にもわたって聞かされるために有識者は呼ばれたのだろうか。
共演者という性質上、あの場でひろゆき氏を咎めることは難しいのかもしれないけれど、彼らが身内に優しいことしか言えないのであれば、コメンテーターとしてテレビに出て話している意味はないだろう、と個人的には思う。
かつて、私自身『AbemaPrime』には二度ほど出演させていただいたこともあるし、番組の制作に携わるプロデューサーやスタッフのみなさまには本当にお世話になり、今でも感謝している。今回あの場に出演されていたコメンテーターの中にもこれまでに一緒に仕事をさせてもらった方がいるし、本当はこんなことを書きたくなかった。その前に、誰かがあれを止めてほしかった。
社会問題に向き合う姿勢への冷笑を、まさかこの時代に、あんなグロテスクな形で見ることになるとは思わなかった。
民衆が起こしている抗議運動に対して、当事者でもない(なんならお前はパリにいるじゃん)人間がろくに歴史を知ろうともせず表面的な揚げ足をとって嘲笑、揶揄するような扱いをしたこと。それを番組側としてもたしなめず、出演者が口々に擁護していたこと。
あんな光景を目の当たりにしてもまだ、メディアは引き続き「ひろゆき」を、有害な過激芸で注目を集めようとする人を、肯定的に出し続けるんでしょうか。