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完璧主義を捨てて「人に期待しない」ことで生きやすくなった

人に期待しない、を徹底している。

期待すると、期待通りのアクションを起こしてもらえなかったときに勝手に裏切られたような気持ちになったり、存在を軽んじられているような気になる。いちいち傷つくのも馬鹿らしいので、もう誰かに期待することをそもそもやめている。

仕事に関してもそうだけれど、例えば同じ仕事を自分と誰かがやるとして、その誰かが自分と同じだけの労力を割いてクオリティを担保しようとするかとか、クライアントに失礼のないように・迷惑をかけないように気を配れるかとか、「自分ならこうする」的な期待を無意識に相手にしてしまうと、だいたい期待はずれの結果になって、勝手にがっかりしたり腹が立ったりする。

多分「期待しない」というのは、自己防衛の手段として、自然にそうしているのだと思う。期待しなければ感情を揺さぶられることもないし、傷付きもしない。生きる上で、事前に精神にかかる負荷を軽減しておくのは、いたって効率的だと思う。

自分はもともと病的な完璧主義で、それは幼少期に備わった性質だと理解している。母親は神経質な性格で、少しでも機嫌を損ねると殴られたり怒鳴られたりするので、幼少期の(青年期くらいまでかもしれない)私にとっては「恐怖」そのものだった。もちろん優しいときもあるけれど、その優しさは恐怖の感情を上回ることはなかった。四歳くらいの頃、コップに入ったお茶をこぼして思い切りビンタを食らったことがある。

それ以来、自分の中で飲み物をこぼすことは禁忌と化し、二度と繰り返してはならないミスとして脳内に刻み込んだ。そういうことの積み重ねで、自分は失敗を強く恐れ、完璧主義に傾倒していった。

母親はとにかく認めたり褒めたりをしてくれない人だったので、子どもながらに「承認」を得たくて、認められたい一心で、勉強にも意欲が湧いた。幼稚園生の頃、一つ年上の兄が小学校でもらってきた国語の問題を勝手に解いて、母親に見せたこともある。小学生の頃に書いた読書感想文を先生に褒められ、喜び勇んで母親に見てもらったら「あんたは文章が下手だね、センスがない」と一蹴された。

そういうところに根っこがある完璧主義は、健全ではない。似たようなコンプレックスやトラウマが原動力になっているものが、自分には少なくない。

母親と事実上絶縁している今、母親に期待することを意図的にやめてから、少しずつ完璧主義も和らいで、「これぐらいでもいいか」と思えることが増えてきた。母親以外の誰かに対しても期待しないようになって、精神的に、微妙に健全になっている。

誰かに褒められるために生きているわけでも、誰かに認めてもらうために生きているわけでもないことに、二十代も終わりに近づいた今、ようやく自覚的になれた気がする。ここまでくるのが、果てしなく長かった。

残された人生は、できるだけ自分のために生きようと思う。

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吉川ばんび
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