「もう不倫しかなくない?」
少しでも日光を浴びるために最低、一週間に一度は近所を散歩することを自分に課している。
強制的に外に出る用事を作らないと永遠に家から出ない怠け者なので、「病院に行く」「スーパーまで買い出しに行く」レベルの用事でも、私にとっては貴重な外出機会だ。
昔は音楽を聴きながら歩くのが好きだったけれど、最近は曲を選ぶのが面倒になって、イヤホンを付けずに出かけることが増えた。そうすると車の走る音や木々が揺れる音、子どものはしゃぐ声やUberEatsの配達員同士の会話なんかが次々に耳に飛び込んでくる。
下校時刻になると、近くの小学校から子どもたちが帰路についていて、グループでいちばん体が大きな男の子が「ジャンケンで負けた人が次の電柱まで全員のランドセル持つことにしようぜ」なんて提案をしていたりする。あまりにも楽しそうなので、ついつい「じゃ、おばさんも混ぜてもらおうかな」と口走りそうになるのを思いとどまり、不審者とはこんな風に生まれるんだろうか、などと考えたりしながら、だいたい15分くらい歩くようにしている。
いつもと違うルートを散歩していたある日、前から30代なかばくらいの女性(あくまで外見上はそう見えた)がこちらへ歩いてくるのが見えた。明るい茶髪、ギャル風のメイク、タイトめのスカートにロングブーツ。「ちゃんと社会に馴染んでいる人だ」と思った。すっぴんに寝癖、部屋着にコートを羽織っただけの私は、なぜか、誰にかはわからないけれど少し申し訳ない気持ちになってしまった。
女性は誰かと電話しているようで、部屋着の女には目もくれず、突進するようにズンズンと狭い歩道を風を切りながら歩いてくる。ぶつからないように、民家に若干めりこむような形で体をよじると、すれ違いざまに女性が衝撃的な一言を口にした。
「もう不倫しかなくない!?」
事件だ。仮に事件でなくとも、かぎりなく事件性を感じるワードだ。普段、芸能人や政治家の不倫のニュースには死ぬほど興味を持てないが、発言から滲み出るあまりものエピソード性に、思わず勢いよく振り返ってしまった。
前後の内容は聞き取れなかったので情報はほとんどないけれど、女性はとにかく怒っていた。電話の相手に愚痴を聞いてもらっているような雰囲気だったが、相手が友達なのか、家族なのか、それすらもわからない。
予想外のできごとを脳が整理しようとしたところで、ふと疑問が浮かんだ。「もう不倫しかなくない!?」は、どういう意味だったのだろう。例えば、自分のパートナーの疑わしい言動に対する「もう(パートナーが)不倫(していると考える)しかなくない!?」だったのか、もしくは、パートナーからぞんざいな扱いを受けていることに腹が立って「もう(自分には)不倫しか(選択肢が)なくない!?」だったのか、あるいはまた別のケースなのか。
想像は無限に広がっていく。気になる。気になりすぎる。気になりすぎて、少し付いて行きたいとすら思った。でもそんなことができるわけもなく(それこそ不審者になる)、後ろ髪を引かれる思いのまま、再び前を向いて歩き始める。
私たちは、すれ違うほんの一瞬だけ同じ時間を共有し、そしてまた、それぞれの日常に帰って行く。もう二度と会わないかもしれないし、いつかどこかで再会することだってあるかもしれない。
「近々また、一緒に串カツ食べにいきましょう」と約束していた友人が、少し前に亡くなった。彼との約束が果たされることはもうない。彼がいないまま、私の日常は続いて行く。
大切な誰かと、いつかまたどこかで再会したときのために、日常の一瞬を少しずつ書き溜めていこう。こんなことがあってさ、といつでも思い返せるように。