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幽霊・分散・ディスクール(2019年の投稿を振り返る)

今年も早いものであと数週間となりました。巷では今年の仕事内容や、今年のベストディスクなどについての発表が俄かに盛り上がっていて羨ましいなと思う反面、

何度か書いているのですが筆者は長らく自分自身を失った状態で過ごしていたため、このように何かについて話ができるようになったのは2019年10月からとなります。

また、noteの投稿には過去の作品のブラッシュアップも含んでいるため、投稿された記事の割には今年の作品はとても少ないと思います。

ですが、一つ一つ結構な熱量で書いているので、この機会に便乗して?自分自身の作品・文章についてのセルフ・ライナーノーツ的に、今年書いた文章を振り返ってみます。

セクションはふたつ、音楽とアート。音楽は小項目を二つ設けています。

★音楽関連の投稿

基本的には音楽関連の投稿が多かったというか、今後も基本的にはそのようになるかと思いますが、自分自身の興味のある音楽、新しい音楽でよいなと思ったアーティストをフックアップしています。

また、日本語で検索をかけたときの上位検索で詳しい記事が少ないクリステン・ビョルク、ムスリムガーゼ、Shitkidなど、アーティストそのもののガイドとして機能して欲しいなという思いもあったりします。恐らく日本語で書かれたテキストの中では割と詳しい方なのではないでしょうか!

文字数は3000〜5000文字と多めではありますが、読んだ方が好きになってくれるような文章になればなあ、と思い書いています。

【アルバムレビュー、アーティスト評】

①Kira Kira『Skotta』レビュー(「分散・包括・島宇宙」)

クリステン・ビョルクことKira Kira『Skotta』について。

文化的発展、おもにテクノロジーの発展が人間の思考にどのように影響を及ぼすか?から始まり、WEBのリソース上で拡散した多様なバックグラウンドがアーティストにどのような影響をもたらすか?そういう意味では、彼女もある意味「現代的」なのかもしれない、というお話です。

幻の名盤として取引されていると聞きふとCDラックから出してみようとしたところ、そもそも家の中からなくなっていた、そんなきっかけから書きました。

②ムスリムガーゼ『Souk Bou Saada』レビュー(「クレオール、侵略、エキゾチシズム」)

「リミットサイクル」とは、かなり大雑把に表現するならば、それは「変化を与えられても元に戻る運動の、その軌道の様子」を表します。

ムスリムガーゼという多作かつ実態のわかりづらい音楽性を持つアーティストについて、一言で「アラビア音楽的」と評するのではなく、もっと深掘りをして彼の「彼らしさ」とはどのようなものなのだろうか?についてを考えてみよう、という試みです。

③3000文字でShitkidをかっこいいと褒める

スウェーデンのバンド、Shitkid。2020年にアルバムをリリースしますが、その前に、Shitkidとはそもそもどんなバンドなのでしょうか?

一見、アウトサイダーに見える彼女たちですが、フロントマンのオーサは真剣に「ロックンロール」をやろうとしているようです。その軌跡について辿ってみました。

④暗闇のせんちめんたる10選(2010年あたりの個人的ベスト・ディスク)

筆者の心が死ぬ前にはその年のベストディスクを個人的に考えていたのですが、それのアウトテイクというか、心に闇を抱えた筆者が暗闇で聴きたくなるようなせんちめんたるなアティチュードを持ったアーティストを10人選んだものです。

この10選については結局どこにも発表していなかったのですが、思い立って原稿化しました。

あとこれは完全に余談なんですが、筆者がTwitter上で発表した個人的2010年のベスト20はこちらです。(togetterのリンクです)

「フロア対応のダウンテンポ〜ベースミュージック、レイドバック系のギターで固めてみました。」
「コンピレーションでよかったのはやはり『ベルゲン・コーリング』、『エロス・アレス』辺りでしょうか、ミックス集ではBurn『ヨーロピアン・セックス・ミュージック』、ジルダ&マサヤ『Tokyo』、それとKira Kira『Skotta』のリイシューなんかも嬉しかったですね。」

とのこと。20歳の自分、生意気ですね〜。(筆者は2010年でちょうど20歳を迎えていました)

⑤シークレットリー・グループとめぐるUSインディのセカイ(2010年〜)

アーティストからではなく、音楽をリリースする「レーベル」という存在から音楽のシーンについて見てみよう、という試み。

チルウェーヴやネオ・サイケの流れをくむUSインディという2010年当時の音楽シーンとレーベルの関係は切っても切れないものがあり、当時を振り返った時にレーベルのカラーがその時代のシーンを象徴したりすることもあるよなあ、と個人的には思います。

おまけでSpotifyのプレイリストも付いています。(40曲ほどあります)

⑥レスターの5人組バンド・Easy Lifeについて(「アルチュセール・革命・シンガロン」)

アルチュセールは革命を成功に導く革命家とは、「慣習の外部から既存の慣習を飲み込み、慣習そのものを新しくしてしまう存在」と表現しました。

「何からしさ」というものは確かにあるものの、 実際に既存の音楽的ジャンルをそこに当てはめるとどうもしっくりこない・・聴いたことがあるような、ないような・・そんなイージー・ライフとはどんなバンドなのだろうか?とを紐解く記事です。

【ちょっとした企画のもの】

⑦好きなものを好きなように語るシリーズ

これは私自身の実体験なのですが、私が某美術大学の女子大生だった頃、同輩の女子大生から「何を言っているのかわからなくて怖い」と言われたことがあります。

評論は確かに難しい言葉を使うことがあります。が、それは私個人が「抽象的な思考は抽象的なアウトプットが好ましい」と考えているからで、話せば長くなるのですが、抽象的な思考をさせるトリガーを作ることが目的な以上は、「難しい言葉をわかりやすく」とは異なるアプローチで書いているのが事実です。

ですが、言葉の抽象度をぐっと下げても同じものについて「好き」と語ることは可能です。書き続けていたら本当に女子大生から「イイね!」が付いたので、今後も続けていきます。

⑧月間まとめシリーズ(その月に聴いた音楽36アーティスト/36曲を選ぶ試み)

これは字の通り・・筆者は個人的に聴いた音楽は紙にメモをとっているのですが、個人的健忘録も兼ねてバンドの楽曲リンク、一言メモを合わせて公開しよう、という試みです。今のところ、半月に一回投稿予定。

★美術評論、アートについて

筆者自身は美術評論があまり得意ではないので更新頻度は低いのですが、アートについての考えや、展覧会から見たアーティストの在り方など書いています。

⑨バスキア以降、バンクシー前後/ポスト・グラフィティのアーティストについて(「ランドマーク・侵略・アクセシビリティ」)

日本でも最近はバンクシーが話題になっているかと思いますが、世界にはこんなに面白いグラフィティで溢れているのに、知識がバスキアやキース・ヘリング、あるいはバンクシーで止まってしまうのはとっても勿体ないことだと筆者は感じています。

このバンクシーの盛り上がりはチャンス!とばかりに、筆者が大好きなグラフィティについて書きました。

グラフィティは今や「ポスト・グラフィティ」といって、違うフェイズに以降しています。政治的イデオロギーのみならず、アートに対する作家の考えの一つの在り方として、グラフィティ・アーティストはとても興味深い存在です。

⑩クリスチャン・ボルタンスキー『Lifetime』レビュー(「幽霊としての人間、記号としての生」)

いつかなくなってしまうもの、というものが作品として存在することについて、筆者は長らくその意味を理解できないままでいました。インスタレーションという作品の在り方について否定するわけではないものの・・

ボルタンスキーの考える生と死、そして文化の在り方、および人間という存在の営みが続いていくという行為性について、あるいは「なくなってしまうもの」とは本当は何なのか?を含め、素晴らしい展覧会だった『Lifetime』を振り返ります。

<少し長いあとがきという名の内省+コミュニケーションついて>

筆者は20代になる少し前からインターネット・マガジンで音楽評論を書かせていただいたりしていました。

音楽などのレビューについて、恐らく最初に書き始めたのは中学生の頃のブログでしたが・・昔から自分なりに音楽について評論のようなものを書いていて、

自分がこんな風に物事を考えたり、アーティストの作品について思いを巡らせる行為は、だから自分の生活の一部として、長らく続けていたものでした。

ですが、精神的に失調し、社会と向き合うことに時間を費やした2012年から2019年までの間、自分の社会的地位や年収は向上する反面、ほとんど何も感じず生きる屍として生きていく中で、いつしかそのような感情や行為性は失われていきました。

思えば、自分自身がこんな風に文章をまた書いたり、何かを好きと言ったり、何がどのように良いのか考えることができるようになるまでにはとても長い時間がかかってしまい、

その間に離れてしまった方もいれば異なる位相に行った方、あるいは文化的なものもかなり変化していて、2019年の10月は喜びと喪失感で感情がいっぱいで、それからの2ヶ月もあっという間に過ぎて行った、という気がしています。

マイケル・フィンドレーは著書『アートの価値』で、「アートとは社会的なものだ」とした上で、下記のように言っていました。

「人は社会的な存在であり、アートを見ることで何を得るにしても、お互い同意するかも別としても、他人とコミュニケーションをすることによってアートを認識する」

これは単なるアートにおけるコミュニケーション論ではなく、あらゆることに敷衍可能な考え方だと個人的には理解しています。

「何か一つのことを語るには、二人以上の話者が必要である」というのはエマニュエル・レヴィナスですが、つまり、私自身、何か一つのことを表現し・発信するという行為はコミュニケーションなのだ、と。

つまるところそれが私にとって、私自身を表現者たらしめる理由というか、自分がそのような行為をせざるを得ない、どうしようもなく切実な、使命感に近い理由なのかもしれない、そんなことを今は思います。

来年も私が私であるように、なんていう願いを込めて。

17/12.2019

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