自由も不自由もここにあって
今回のあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止を受け、私の目の届く範囲のことではありますが、表現の自由の危機として憤る作家さんや美術ファンの方の意見も見受けられました。
気持ちもわかるし、私も自由を愛する絵描きの端くれてはありますが、どうしても同じように憤る気持ちにはなれませんでした。
なぜなら、社会が受け入れてくれないから自由が無いというのは、私にとっては人任せな自由に思えてしまったからです。
私は表現の自由のために表現してる訳ではなく、ただ自由に表現するだけだと思ってきました。
漢字にある通り自由は「自らが由(よし)とする」ことで、それが受け入れないと憤るのは他人の自由に対して過剰に期待することじゃないかなと私は感じてしまいます。
表現活動を続ける中で、むしろ自分の思い通りに理解されたり受け入れられることの方がとても稀だと痛感してきました。その失意や悔しさの度に野心は研ぎ澄まされ、謙虚さを覚え、人格が少しでも磨かれてゆくことを私は信じてきました。
肉体を持って欲望を持って生きている限り、作ったものが受け入れられて欲しいという願いは続くと思います。けど、その為に誰かを憎んだり恨んだりすまいとも思ってきました。
あらゆる時代を超えてきた作品には、強要せずとも人の心を打つ力があります。
そこへ至る絵を描きたいと思うし、描いた先のことは天に任せるよりないとどこかで思っています。
補足
今回議論されている「表現の自由」は憲法に則った「社会の規定する自由」のことだということは認識しております。
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