日米修好通商条約は本当に不平等条約だったのか?

関税自主権と領事裁判権の新たな視点


1. 日米修好通商条約が不平等条約とされる理由

これまで、**日米修好通商条約(1858年)**は「不平等条約」として教科書や歴史の解説で取り上げられてきた。その理由として、次の2つの要素が挙げられている。

・関税自主権の喪失
・領事裁判権の承認

これらの要素が、日本の主権を制限した不平等なものであったとされているが、この評価には見直すべき点がある。関税自主権の問題については、当初の条約ではむしろ日本に有利な関税率が設定されていたことや、その後の関税引き下げは長州藩が引き起こした「下関戦争」の賠償交渉が原因であった。領事裁判権についても、当時の法体系や外交の実情を考えれば、必ずしも不平等な内容ではなかったことが分かる。


2. 関税自主権は本当に「不平等」だったのか?

(1) 日米修好通商条約の関税率はむしろ有利だった

  • 輸出関税:一律5%

  • 輸入関税:一律20%(品目によっては5%から35%の範囲)

この関税率を見ると、輸出品は5%の関税率で済み、輸入品は20%の関税がかかるため、日本国内の産業を保護する効果があった。この点は、日本にとってむしろ有利な関税率であったと言える。
当時、イギリスなどの商人は日本に対して安い外国製の工業製品(特に綿製品など)を輸出したがっていたため、20%の輸入関税は彼らの活動を制限するものであった。これにより、日本国内の産業(特に織物産業)が守られていた

(2) 不平等の原因は「改税約書(1866年)」にある
日米修好通商条約での関税条件は、日本にとって不利なものではなかったが、1866年の「改税約書」で状況が一変した

  • 改税約書の内容

    • 輸出関税:5%(変更なし)

    • 輸入関税:一律5%(20% → 5%に大幅引き下げ)

これにより、外国から日本に流入する輸入品(特に綿織物)の価格が安くなり、国内の産業が大きな打撃を受けた。また、20%の関税収入が大きく減少したことで、幕府の財政も打撃を受けた

(3) 改税約書の原因は「長州藩の行動」にあった

  • 1863年、長州藩は「攘夷」を実行し、下関海峡を通る外国船を砲撃した(これが下関戦争)。

  • これに対して、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国連合艦隊が長州を攻撃し、長州は敗北した。

  • その結果、幕府は賠償金として300万ドルの支払いを求められたが、支払いを避けるために関税率を5%に引き下げる条件を受け入れた

  • つまり、改税約書の成立は、幕府の外交力不足ではなく、長州藩の攘夷行動が原因だった。


3. 領事裁判権は本当に「不平等」だったのか?

(1) 領事裁判権の背景

  • 領事裁判権とは、外国人が日本国内で自国の法に基づいて裁判を受ける権利のこと。

  • 日本国内で犯罪を犯した外国人が日本の法律ではなく、自国の法律に基づいて裁かれるため、これが「不平等」とされてきた。

(2) 領事裁判権は合理的な措置だった

  • 当時の日本の刑罰は、死刑、流罪、鞭打ち刑、財産没収などが中心であり、懲役刑は存在しなかった

  • 外国人に対して鞭打ちや流罪を科すことは、国際的な大問題を引き起こす可能性があった。

  • そのため、自国の法律に基づいて外国人を裁くことは、当時の国際基準に沿った合理的な措置だったと言える。

(3) 外国人の行動範囲の制限

  • 外国人は居留地の外への移動が厳しく制限されていた

  • 外国人は特定の条約港に限定され、その外に出るためには日本政府の許可が必要だった

  • これにより、外国人が日本国内を自由に行動することはできなかった

  • 一方で、日本人は海外への渡航が自由であったため、外交のバランスが取れていたとも言える。

(4) 領事裁判権がもたらした「プラスの効果」

  • 日本人の海外渡航が自由になった

  • これにより、咸臨丸の派遣(1860年)や使節団のアメリカ派遣が可能になった

  • 咸臨丸は日本初の太平洋横断航海を達成し、使節団は国際社会における日本の存在感を高めた

  • 特に、福沢諭吉が使節団の一員として渡航したことで、後の日本の近代化に大きな影響を与えた

  • これらの渡航が可能になったことは、国際的な地位の向上や日本の国際社会への参加を促す重要な要素だった


4. 日米修好通商条約 第二条が示す重要な意義

  • 第二条の内容

    • 日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。

    • 日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。

    • アメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。

この条文により、日本がアメリカの後ろ盾を得ていたことが明確になるため、他国からの植民地化の恐れは極めて低かったと言える。


5. 総合的な考察

関税自主権の喪失
当初の条約では関税率は日本に有利。関税が不利になったのは1866年の改税約書が原因。原因は長州藩の下関戦争にある。

領事裁判権の承認
不平等ではなく、当時の法制度や国際的な基準を考慮すれば合理的な措置。これにより、日本人の海外渡航が可能になり、国際的な地位が向上した


6. 結論

関税自主権と領事裁判権の観点から、日米修好通商条約は必ずしも不平等な条約ではなかったと言える。
日米修好通商条約による貿易拡大は、日本のGDPを約7%も押し上げたとする研究もある。この成長は、当時の新しい貿易構造理論の予測を上回る利益をもたらしたとされている。これを考慮すれば、日米修好通商条約が一方的な不利益をもたらした条約ではなかったことがわかる。



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