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孤独と芸術 7

観察者の“意思”が実験結果を確定する?―物理学

※シュレーディンガーの猫についての説明になります。知っている方は飛ばし読み可。

 人間の意識がダイレクトに物質世界に影響を及ぼしている、というのはここ最近の科学の世界での新常識である。
 その話をわかりやすく説明するのに「シュレーディンガーの猫」という有名な思考実験がある。
 箱の中に50%の確率で毒ガスが噴射される装置とともに猫を入れたとき、どんなに予測しようと計算しようと、箱を開けるまでは猫の生死を確認することはできないため、開ける前までは「生存」と「死亡」の状態が重なり合っている、と考えるものだ。

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 つまり、“観測”= “人間の意識”を介さずに実験結果を知ることは不可能なのである。
 実際にこの重ね合わせの状態があることを証明したのが「二重スリット実験」である。

 その昔、「光は波である」と主張した科学者と、「光は粒子である」と主張した科学者がいた。これは、光の代わりに電子を用いられた実験である。
 電子銃の前にボードを置き、二つのスリット(隙間)を開けておく。そしてその奥にはスクリーンを配置し、電子が当たると白い跡が残るようにする。

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 この実験の目的は、「二つ穴が空いた板に向かって電子を飛ばしたとき、スクリーンにどう映るか」を確かめることである。
 科学者たちは、光の性質を明らかにするため、電子の飛ばし方を変えて3つの実験を行なった。

【実験A】 大量に電子を発射した場合


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 波の特性である「干渉縞」が現れた。これは、「電子が波である」と考えれば不思議なことではなく、一つの大きな波が「スリットAを通っていく波」と「スリットBを通っていく波」に分かれて互いに干渉し合った結果生まれたものである。

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 これで、電子は波であるという結論を持つことができる。

【実験B】 電子一個を発射した場合

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 電子がスクリーン上に「点」として現れた。これは、「電子が粒子」であるという確かな証拠である。

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 ここに、追加実験としてスリットA・Bにそれぞれ「電子が通ったことを感知するセンサ」を置く。もし、電子が本当に粒子であれば、どちらかのスリットしか通らないはずだからである。逆に波であれば、両方のスリットから出てきてもおかしくはない。
 さて、両方のスリットに「電子が通ったことを感知するセンサ」を置いて電子一個を飛ばす。すると、センサは必ず一方しか反応しないのだ。

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 これは一個の電子が一個の粒子であるという確かな証拠になった。
 したがって、電子は粒子であるという結論を持つことができるようになった。
 実験Aでは確かに「電子は波」であったのに、実験Bでは「電子は粒子」であるという結果になってしまった。一体どちらが正しいのだろう?
 実は、強引に考えれば、電子が波でも粒子でもそれぞれのケースで実験A・Bの結果を説明することはできる。であるのに、なぜ「電子は波であり粒子である」という理論を持ち出さなければならなくなったのか。
 それは、実験Cがどうしても説明つかなかったからだ。

【実験C】 電子一個を少しずつ発射した場合


 実験A・Bの結果を踏まえて、電子一個の発射を何度も繰り返したらどうなるであろうか(つまり実験Bを連続して行うだけである)。
 当然だが、スクリーンには「電子一個」が発射されるたびに、ぽつん、ぽつんと少しずつ小さな「点」が増えていく。
 しかし、ここで不思議なのは、「電子一個の発射」を繰り返して「点」の数が増えていくと、その「点」の集まりが、実験Aの干渉縞と同じ模様になるのである。
 この実験結果がこれまでの世界観を打ち砕くことになった。

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 最初の1個目では、実験Bと同様に一個だけ「点」が映し出された。

 100個電子を打てば、100個の点が映し出される。
 そして、それを何度も繰り返して、1000個目くらいになったとき、スクリーン上の「点」の集合は、はっきりと実験Aの縞模様と同じ模様だということがわかってくる。

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 まず、電子一個を飛ばすと、電子はスクリーン上のどこかに到達し、その場所に「点」を映し出すわけだが、この「点」がスクリーンのどの位置に映し出されるかについては、確実な予測ができない。
 不思議なことに、可能な限り同じ条件を揃えて電子一個を同じように飛ばしてみても、スクリーン上の「点」は、あっちこっちに気まぐれな結果を残す。

 さて、電子一個を何度も繰り返し飛ばしていくと、たくさんの「点」がスクリーン上のいたるところに映し出されていくが、最終的にはその「点」の集合が、「干渉縞の模様」と同じであることが判明した。

 ここからの科学者たちの解釈は狼狽したものになった。しかし、いくら考えても電子の軌道を知ることはできなかった。
なぜなら、「観測するということは、観測する対象に影響を与えること」であり、電子が実際に移動しているところを観測したらその時点で電子の正常な軌道を知り得なくなるからだ。
この場合で言えば、「電子を観測する」ことは、「電子に、光など他の物質をぶつける」などして、その位置を調べるということである。したがって、電子の軌道は観測の影響によって大きく変えられてしまう。
 そこから生まれたのが、「観測される前は波であり、観測されると粒子になる」という解釈である。これが実験結果に矛盾を生み出さない理論となった。

 つまり、我々が「観測していない状態のもの」については何も言えないのである。これは、先ほどのシュレディンガーの猫の思考実験と同様、「スリットAを通り抜ける可能性」と「スリットBを通り抜ける可能性」が同時に存在しており、観測(人間の意識が認識)した瞬間に一つの粒子として確定されたわけである。

 量子論における粒子と波動の二重性もまた脳と意識の関係を説明するものになるという。つまり、意識=波動であり、脳=粒子であるということだ。


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