『働け』という有形無形の圧力
「〇〇(内定先)で働くとは」という課題が出された。そもそも「働くとは」の時点でつまづいている。
私は25歳で、来春から社会人になる。4年制大学を卒業した後、2年で修士号を取得した。今は博士課程1年だが、中退して来年から働くことにした。研究を続けるか悩んでいたから昨年度は就活をしなかったが、悩むくらいなら。と思って就活を始めたのだった。感染症が世界を混乱の渦に巻き込み始めた頃だった。
思いの外、就活はうまくいった。リモートの面接は直接の面接と大して変わらなかったし、当時はどこまで経済の影響を受ける予測が立っていなかったおかげかもしれない。ただ、面接官のある台詞が今も私の脳内にべっとりとこびりついて離れない。
「その年齢ならさすがにもう働き始めたほうがいいよね」
ある企業の面接官に何気なく言われた一言だった。口に出した本人はなんの悪気もなさそうで、むしろ同情するような顔をされた。私は違和感を覚えた。ん?なんだコレは?『働いている』という状態がある種の特権階級でもあるかのように語られているような気がしたのだった。
「もう○○歳でしょう?」「働かざるもの食うべからず」「気楽そうでいいね」
思えば、こうした有形無形の圧力にはいつも苦しめられてきたように思う。余計なお世話だ。
私は何も、働くことを否定したいとか、いくつになっても働きたくない(できることなら働きたくない)と駄々をこねているとかそういうわけではない。市場経済が私達の生活に浸透し、支配しつつある現代社会において、働かなければ収入を得ることは難しい。生活するためには多少の労働は必要だ。何を言いたいかというと、働くということがさも当然で、働いていないということが異常であるとみなす風潮が不健全じゃあないかということだ。
誰しも働き続けられるとは限らない。急に病気になるかもしれないし、事故に遭うかもしれない。もしそうなったら、働けという圧力はまさに自分のもとへ向かってくる。今では盛んにAIによる失業の議論がなされるようになっていて、誰しも働けなくなるかもしれないという状況がますます現実味を帯び始めている(本来なら喜ばしいことなのかもしれないが)。こうした事態がまさに現実のものとなったとき、働くことを美徳と考えている人の精神衛生状態は間違いなくスラム化するだろう。どの職業なら無くならないのか。どの職業は危ないのか。今まで通り周囲を見渡して同じことをしてもあまり意味はなさそうだ。大切なことは働かなくてはいけないという謎の強迫観念を取り払って、どう生きていくかをもっと意識して行ったほうが良さそうに思う。働くことはあくまで手段だ。根拠のない命令は人の胸の中に入り込み、息もできないくらいいっぱいになって苦しくさせる。それは下した本人にも跳ね返ってくる。こういう無駄なテンションを張り続けるのはやめてほしい。勤労を美徳とし、人に押し付けるやり方は働かないより不健全だし異常だ。
私自身、現状に満足していた。いろんなキャリアがあってよいと思うし、それを認め合った方がより多くの人が生きやすいに違いない。多様性を認めて合えば新しい価値観が生まれて、より弾力性は高まる。そういう空気がもっと醸成されていけば良いのに。そうすれば、よりみんなが生きやすい社会になっていくはずなのに。
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