ボブ・ディラン と時空のねじれ 1.脱栄光主義
1.脱栄光主義
新曲で世界をまわる81歳
先日、ボブ・ディランのライブを観に行った。「Rough and Rowdy Ways Tour」と銘打たれたその日本ツアーは、じつは2020年に発売されたニューアルバム「Rough and Rowdy Ways」にあわせて同年4月に組まれていたのだが、新型コロナウィルス感染症の拡大により、公演は直前になって中止になってしまい、それっきり頓挫したままだった。しかしあれから3年、コロナ禍の長いトンネルを抜けた今年4月、ボブ・ディランは日本へやってきた。大阪・東京・名古屋の3都市11公演という本腰をいれたツアーだ。ぼくが観たのは4月15日(土)の東京ガーデンシアターのライブだった。
最初にひとつ、大切な事実を共有しておかなければならない。それはボブ・ディランが81歳で、60年を超えるキャリアを有しているということだ。彼がファーストアルバム「Bob Dylan」をリリースしたのが1962年3月。以降、600以上もの楽曲を制作してきた。
ところで最近、コンサートの情報サイトを見れば、たくさんの大物外国人ミュージシャンが精力的に来日している様子がうかがえる。だが、彼らはきまって過去の名曲、いわゆるオールタイムベストを演奏する。言い換えれば、かつての栄光の時代をステージに再現するのだ。それは決して悪いことではない。見たいものは見たい、聴きたいものは聴きたい。観客がそう思うのは当然で、演奏する側のミュージシャンもそうだろう。自身の輝かしい時代を中心にステージを組み立てるのはなにも不思議なことではない。
しかしボブ・ディランはどこ吹く風。81歳になってもなお、ニューアルバムをお披露目しにやってくる。キャリア62年目にして、新曲を聴かせるために世界をまわるのがボブ・ディランなのである。
まだ価値とは呼べないもの
では、その態度とはどのようなものなのだろう。ボブ・ディランほどの膨大な過去を持つ人であれば、いくらでも栄光を再生産できる。なのになぜライブでは新曲にこだわるのだろう。その謎を知るためにも、まずは「過去」と「今」について考えてみたい。
「過去」とは、すでに起きたこと、確定した事実、経験したことなどの集合体である。その特徴とは、おおよそ価値が定まっていることにある。ときには過去を再定義したり、再発見したりすることはあるけれど、それは定まった価値の更新といえるだろう。つまり、過去とは基本的に「安定」しているのだ。
対して「今」とは未来へと繋がる現在地であり、これから始まる未知との接触点である。その特徴とは、まだ価値が定まっていないことにある。「不安定」こそが今といえるのだ。
ボブ・ディランがニューアルバムの楽曲を中心にライブで演奏するということは、その“接触点”を、そしてそこから広がる“波紋”に重きを置いているということだ。波紋とは、不安、期待、希望、戸惑い、おののきなど、まだ価値とは呼べない感情のかたまり。ぼくたちが今日や明日に感じる気持ちと本質的に変わらない。ボブディランが新曲にこだわるということは、波紋がもたらす不安定な「今」に身を投げ出すということなのだ。
過去は過去の姿をしていない
とはいえ当たり前のことだが、人から歴史を取り去ることはできない。ボブ・ディランには61年の歴史があり、その背後にはめまいがするほどの音楽的資産が横たわっている。そこからとめどなくあふれ出す豊穣を、ボブ・ディランは否定しない。実際、ライブでは過去の曲を一切やらないわけではない。数曲は織り交ぜる。だけど、だからといって観客の求めに応じた曲を演奏するのではない。今の自分がやりたい曲を演奏するのだ。
それが”聴いたことのある曲”ならまだいい。たとえ一曲でも「あの曲をやってくれてありがとう」と思えるような瞬間があれば、観客にとってこんなに嬉しいことはない。だけど、そのような代表曲をやるかやらないかは分からない。”お約束”などいっさいないのだから、むしろ「やらないかもしれない」という覚悟は持っておかなければならない。
しかも、やっかいなのは、いくら有名な過去曲を聴いても、なかなか”それ”と気づけないということだ。(もちろん観客の感応力にもよるだろう。実際、2016年の東京ドームシティホールのライブでぼくは「Blowin' In the Wind」を聴いたのだが、曲が半分くらいまで過ぎてようやく、「どうやらblowin' in the windと歌っているみたいだな」と気づいた。もっと早く気づく人もいれば、もっと遅くまで気づかない人もいるだろう。)
ボブ・ディランは、どんな理由や気分によってかは知らないが、あらゆる過去曲を換骨奪胎、まっさらな「今」に経由させてしまう。「過去曲をまるで聴いたことのない新曲のように演奏する」というのが、ボブディランの流儀なのである。
ボブ・ディランという不安
では、なぜ過去曲をまるで新曲のように演奏するのか。それは、先ほど述べた過去と今の特徴でなぞらえると、過去曲を安定した状態から不安定な状態へと移し替えているといえる。ボブ・ディランは、過去の曲が、過去の姿のまま、今に立ち上がることに興味がないのだ。過去が今とつながっているのであれば、今に立ち上がる過去曲は、今の姿をしていることが当たり前だ。そのアプローチは意匠的かもしれないし、構造的かもしれない。いずれにせよボブ・ディランは、過去の音楽を、栄光の姿にとどめることをよしとしない。「今」を志向するために、栄光をいともたやすく解体し、新たに洗練された設計とデザインをする。その態度はさしずめ「脱栄光主義」ともいえるだろう。
そのようなボブ・ディランを聴く者として取りうる態度があるとすれば、振りまわされ、悩まされるのを、むしろ肯定的に捉えることしかない。「サービス精神がない」とか「偏屈なオヤジだ」とか言ってもしょうがないのだ。ボブ・ディランにお約束を期待する者や、「今」の不安に耐えられない者は、脱落するしかない。そういう意味で彼は、常に自身の音楽を聴く者を淘汰しつづけているのだ。
ぼくはこの日ボブ・ディランを観た。生身のボブ・ディランの音楽の手触りは、今という「未知への揺らぎ」と、今へと変換されつづける過去の「横溢する豊穣」だった。その複雑怪奇なバランスこそが、ぼくを不思議な、至高の音楽体験へと連れていってくれたのである。