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「真実」と「事実」を考えてみよう

ドラマ「ミステリと言う勿れ」で少し話題になった「真実」と「事実」。「真実はいつもひとつ!!」がキメ台詞のコナンくんには申し訳ないが、どうやら「真実」は人の数以上にあるみたいだ。逆に「事実」は一つしかない。
今日は「真実」と「事実」似ているようで結構違うこの2つを考えてみようと思う。

■何が違うのか?

辞書の引用ではなく、自分の言葉で書いてみたそれぞれの意味。

●真実

主観。
人の数どころか、捉え方次第で無数に増えて行く。
だから感情を伴いがち。

●事実

客観。
一つしかない出来事。感情を差し挟むものではない。
何かしらの感情を伴ったとすれば、その人の中で真実に変わってしまったから。

要は主観と客観の違いと「事実は一つ」しか無いってことが決定的だ。コナンくんを否定したいわけではない。

一つの事実に触れた人の中に無数の真実が生まれる。だからややこしい。真実は事実に忠実な場合もあれば曲解されることもある。さらに人を介して伝聞で広がればさらに事実とかけ離れる可能性も大きい。


●変な正義が生まれることもある

同じ事実から生まれた2つの真実があるとする。

1つの事実から真実Aと真実Bに派生したとしよう。
AもBもこの事実を「問題」と捉える見方は同じ。

真実Aは事実を問題視している見方でアクションを求める。真実Bも同様だがAとは捉える重さが違う。だからすぐのアクションまでは求めていない。
両者の捉え方はほぼ同じだが事実に対する感受性の「程度」が違う。

この感受性の程度が違う理由は様々。
単に価値観の違いもあるが、立場の違いや持っている情報の格差、その人が負っている責任の重さなど色々あり得る。

重く捉えるAの視点は、是正しよう圧が強い。故に正義を振りかざしたような言動に走りがち。

Aは問題を軽視するBに苛立ち当たりが強い。Bは正義を振りかざすAがうっとおしい。だからお互いにヘイトが溜まって行き…結局、話しはいつまで経っても平行線。

会社でもこんなことはよく起きる。
各々の真実が事実と入り混じってしまい、肝心の問題がよく見えなくなってくる。そこには

「オレ、こんなに頑張ってるのに何で動いてくれないの?」
「やれやれ言うけど何をやらせたいの?」

みたいな摩擦が起きて両者で疲弊してしまう。
それは、お互いの真実をぶつけ合ってしまうから。

こういう時は、スタート地点に立ち返って改めて「事実」を評価して互いの「程度」の差を見つめないと話しは進まないだろう。

単に価値観の違いもあるが、立場の違いや持っている情報の格差、その人が負っている責任の重さなど色々あり得る。

先ほど書いた↑の部分。
こういったことに起因する互いの真実が擦り合わないと。
その姿勢がないと元々そこに在りもしなかった「正義」と「悪」が生まれて事はどんどん厄介になる。

歴史認識の争いや戦争もそんなことが発端なのかもしれない。歴史なんて真実の積み重ねだから余計に厄介だ。

まず、落ち着こう。

■事実を確かめる姿勢

真実のぶつかり合いって人類史上ずっと続いている。むしろ発端となった事実なんかそっちのけで争いが続く。
それくらい難しい問題でもあるのだ。

だからこそ冷静に「真実」を考えた方がいい。一つしかない出来事をなるべく客観的に。
自分の中ではもう真実になってしまってるだろうから一度疑った方がいいのだと思う。

感情を差し挟むはずのない「真実」に対して、何かしらの感情が動いた時。損得や都合が邪魔をしてそうな時はもう怪しい。

そこを見誤らず聞く姿勢と協調性を持たないと「事実」は如何様にも歪んで行くんだろうと思う。

〜おわり〜

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