クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #107~東海林太郎『国境の町』(1934)
東海林太郎(1898年12月11日 - 1972年10月4日)の1934年発売の大ヒット曲にして彼の代表曲『国境の町』。
私は小学生の頃、テレビの懐メロ番組で、彼がロイド眼鏡をかけ、燕尾服を着て、SONYのコンデンサーマイクC-38Bに向かって直立不動で歌う姿をよく見た。東海林が亡くなった時、私は小学校2年生だったので、懐メロ番組の映像は過去のVTRによるものだったということになる。
彼のハイ・バリトンの明確な歌声故か、『国境の町』の歌詞は、たとえ字幕がなかったとしても小学生の頭に刻み込まれ、そのまま映像化された。
日本本土から遠く離れた極寒の国境の町で、望郷と本土に残してきた愛する人への募る気持ち・・・。
小学生当時、この歌の舞台がどこなのかは分からなかったが、中学校に上がり、日本史を学び、そして東海林太郎の生い立ちを知り、そこが満州国であったことを知った。
そもそも東海林の父親は息子を秋田県に残し、南満州鉄道株式会社(満鉄)で働いていた。そして、彼自身も1923年9月、満鉄に入社し、奉天市(現 瀋陽市)の本社庶務部調査課に配属された。
その後、27年に鉄嶺市の満鉄図書館に異動している(東海林の思想が左翼的だったので、左遷させられた、というのが真相らしい)。
この曲の『国境』とはソビエト連邦との国境だろう。
満鉄の本社も図書館もソビエト国境からは遠く離れていたので、東海林の実体験ではなく、あくまでもフィクションによる歌詞だが、明らかに東海林の身の上を踏まえた上で作られ、歌われていた、ということになる。
それにしても、これほど鮮明な映像化を自然に起こさせる歌があろうか?
中学生の時、この曲により愛着を持ったのにはもう一つ理由がある。
中学、高校時代、男子校で6年間共に学んだ友人が、仲間内の遊び、特に女子校生とのグループ交際のお遊びで、誰かの自宅に集まってカラオケ(と言っても当時今のようなカラオケのシステムはなかったが)をする時、必ずと言っていいほど東海林太郎の物まね、つまりロイド眼鏡、燕尾服姿で『国境の町』を歌っていた。
私にとっては面白い出し物だったが、その場にいた女子学生はどう思ったことやら・・・。
その友人はその後、日本大学文理学部に進み、そのままそこに奉職した。
日本を代表する災害社会学、災害情報論の権威である中森広道教授だ。
私も静岡県のマスメディアで働いている、ということもあって、彼とは7,8年前に一度、地震防災とメディアの役割に関するコンテンツを共同制作もした。
アラ・シックスになった中森君が、今、あの当時のように物まねしたら、どんな感じだろうか?