シレナ1912×78rpmの邂逅 Vol.19~エミー・ベッテンドルフ 『愛の神よ、安らぎを与えたまえ』(1922)
「モーツァルトの傑作を1曲」と問われれば、皆悩みに悩んだ挙げ句の果てに、『フィガロの結婚』を挙げるのではないか?
そう言う私も、日頃聴く機会は交響曲、ピアノ協奏曲、弦楽四、五重奏曲が圧倒的に多くても、「1曲」と言えば結局フィガロを選ぶのではないだろうか。
貴族に仕える家臣と女中の結婚式当日たった1日の間に起こる出来事を、個性ある登場人物たち同士の、様々な、そして入り組んだ関係を複雑に絡めながら描いていく『フィガロの結婚』。
第2幕が開いて最初に目にし、耳にするのが、伯爵夫人が夫の愛が冷めてきたことを悲しん歌うカヴァティーナ、“Porgi, amor, qualche ristoro”、『愛の神よ、安らぎを与えたまえ』。
このオペラの原作であるボーマルシェの戯曲は、フィガロ、スザンナ、アルマヴィーヴァ伯爵、伯爵夫人(コンテッサ)、ケルビーノの5人が中心となって繰り広げられる喜劇であるのと同時に、貴族に仕える家臣フィガロの結婚式をめぐる事件を通じて、貴族を痛烈に批判している。
モーツァルトと脚本家のダ・ポンテは貴族批判の要素をいい具合にに薄めて、神聖ローマ帝国の首都であるウィーン、皇帝ヨーゼフ2世のお膝元で上演することに成功した。
だが上演は大成功というわけではなく、やはり貴族批判の要素を問題視する勢力の横槍もあり、ロングラン上演とはならなかった。
タイトル・ロールは言うまでもなくフィガロではあるのだが、先にも触れた通り、他の4人の魅力が様々な組み合わせで行き交っており、他の4人の誰かを主人公にして、同じストーリーを別の視点から展開することも可能なように思える。
中でも伯爵夫人の格調ある物腰、夫の自分への愛が冷めてきたことに嘆くフェミニンな様子、利発なスザンナと共に夫を懲らしめようとする機転などなど、人物としての魅力は実に多角的である。
第1幕での出演はないが、第2幕以降のストーリーの根幹を動かしているのは、実はフィガロとスザンナではなく、コンテッサである、と言っても決して過言ではない。
『フィガロの結婚』が単なるドタバタ喜劇ではない、と観た者誰もが思うようになるのは、コンテッサの存在に依るところが大きいのではないか?
それほど彼女には懐の深さがあるし、演じるソプラノもそう観せる、聴かせる力がないと務まるものではない。
そう考えていくと、コンテッサを完璧に演じられるソプラノなどいないのではないか?とも思えてくる。
単なる好色男ではない「ドン・ジョヴァンニ」のタイトルロールを、完璧に演じるバス/バリトンがいないように…。
個人的な趣味とは全く異なるが、リアルタイムで音盤や映像で知り得たソプラノの中では、キリ・テ・カナワ(1944- )のコンテッサが、既に記した魅力を高次元で発揮しているように思う。
さて、エミー・ベッテンドルフ(1895 - 1963)である。
ベッテンドルフについてはこれまで何度もnoteで取り上げ、SPレコードを蓄音機で再生した動画もその都度ご紹介してきた。
彼女の詳しいプロフィールはそれらの記事でご確認いただきたい。
掻い摘んで言えば、レパートリー的に極めて重複する部分が多く、ベッテンドルフの7歳年上で、同時期にベルリンで活躍したロッテ・レーマンと比較すれば、後世に名を残すことはなく、実際にオペラ歌手としては14年、歌手としてのキャリアもたった20年間で終え、その最期は貧困の中にあったのがエミー・ベッテンドルフである。
レーマンと近似する部分は大きいが、たとえばコンテッサを例とするならば、レーマンの威厳があって毅然とした雰囲気を感じさせるのとは少し違い、ベッテンドルフのコンテッサにはその声質に拠るところが大きいのだが、人懐っこさ、温もりがより強く感じられる。
それがコンテッサのあるべき姿かと言えば、正直食い足りないところがあるようにも感じる。
でも何故か惹かれる。
その正体は「母性」のような気もする。
歌手としても一人の女性としても、決して多幸ではなかったベッテンドルフの心の底にあったものに触れること、それが彼女のコンテッサを聴く悦びではないのだろうか?
なお、ベッテンドルフは当時の多くの歌手がそうであったように原語のイタリア語ではなく、ドイツ語で歌唱している。