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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 Vol.22 ~アントン・ブルックナー生誕200年記念~カール・ベーム/ドレスデン・シュターツカペレ            交響曲 第4番 &第5番        ~貴方は150分に及ぶこの『苦行』に耐えられるのか?~          2024年9月15日 かふぇ あたらくしあ    

「長大なブルックナー作品を聴くには、いささかの努力や忍耐を要する。だがその労苦には報いも大きい。時としてその音楽から聴かれる、不思議な開放感や安らぎは、その「吞み込みにくさ」と無関係ではないのだ。その底知れない音楽は、人間的なものを突き抜け、ヨーロッパ文明をも突き抜け、深々とした闇に繋がっている。私がこれまでブルックナーを聴きながら、ようやくたどり着いた結論である」。

田代櫂『アントン・ブルックナー 魂の山嶺』

これは日本語で書かれたブルックナーの評伝の中では断トツの面白さ、正確さを持ち、ブルックナーの人間性と芸術性の乖離の謎を解く、というスタンスで一貫して書かれた田代櫂著『アントン・ブルックナー 魂の山嶺』のあとがきの一部である。

一方、村上春樹が実話(主人公からの聴き取り)に基づいて書いた短編小説『プールサイド』(1983)には、そのの主人公であるエリートの男性が、35歳の誕生日当日の晩、妻が寝静まった後にブルックナーの交響曲を聴くシーンが描かれている。

「彼は台所に行ってもう一本ビールを飲んだ。そして今のステレオ装置の前にうつぶせに寝転び、ヘッドフォンをつけ、夜中のニ時までブルックナーのシンフォニーを聴いた。夜中に一人でブルックナーの長大なシンフォニーを聴くたびに、彼はいつもある皮肉な喜びを感じた。それは音楽の中でしか感じ取ることのできない奇妙な喜びだった。時間とエネルギーと才能の壮大な消耗・・・・・。」

村上春樹『プールサイド』

田代氏と村上氏の言葉遣い、表現は異なるが、ブルックナーが残した交響曲11曲(第0番~第9番、そして習作の通称00番)を聴くことで得られる喜び(「悦び」と言ってもいい)が、如何に特別な種類のもので、それを得るためには何らかの辛抱が必要であり、ブルックナーの交響曲が聴く者にそれを求めている、という意味ではその根っこは同じのように思われる。
私はそれを極めてシンプルに「苦行」という一言で言い表したいと思う。
※【苦行】 激しく肉体を苦しめる行いによって精神を浄化し、悟りを得ようとする修行 (大辞林)

疲労困憊している普段の生活で60分~90分の時間を確保して、いつ終わるとも思えない、音楽的結論がどんどん先延ばしされるブルックナーのシンフォニーを、じっと耐えながら、睡魔に襲われそうになりながら聴く、という行為、そしてそれを遂行した時に感じる、「感動」と一言では片付けられないような得も言われぬ充足感に満たされる行為は「苦行」以外の何物でもないと・・・・・。
そして、しばらくすると誰からも命ぜられるわけでもないのに、また「苦行」に臨みたくなる哀れな自分を思い知る、という繰り返し・・・。

本日はその「苦行」の中でも最上級のそれが皆さんを待ち構えている。
LPやCDならば多くとも2枚で収まるブルックナーの交響曲を、1面最大5分しか収録できないSPレコードを何回も、何枚も取ってはひっくり返しながら聴くという消耗な作業、作品を聴くにあたり、精神的気分の持続が求められるはずのブルックナーのシンフォニーが、第4番では16回、第5番では18回も強制的に断絶されるという現実に、嫌気がさしたとしても何の不思議もない。

ただ、カール・ベームとドレスデン・シュターツカペレが1930年代に録音した、いずれも世界初録音となる第4番と第5番のSPレコードを聴き終えた時、皆さんの気持ちに何らかの変化、引っかかり生じていたら幸いである。

ザンクト・フローリアン修道院大聖堂(2018・筆者撮影)

[第4番 変ホ長調]
◆カール・ベーム/ドレスデン・シュターツカペレ(1936)
◆オイゲン・ヨッフム/ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団 (1939)

[第5番 変ロ長調]
◆ カール・ベーム/ドレスデン・シュターツカペレ(1937) 
◆オイゲン・ヨッフム/ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団 (1938)

[第7番 ホ長調]
◆オスカー・フリート/ベルリン・シュターツカペレ(1924)
 ※ブルックナーの交響曲、唯一のアコースティック録音
◆ヤッシャ・ホーレンシュタイン/ベルリン・フィルハーモー管弦楽団(1928) 
◆ユージン・オーマンディ/ミネアポリス管弦楽団 (1935)
◆オイゲン・ヨッフム/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1939)
◆カール・シューリヒト/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1939) 
◆オズヴァルト・カバスタ/ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1942)
◆エドゥアルト・ファン・ベイヌム/アムステルダム・コンセルトヘボウ管
 弦楽団(1947)

[第8番 ハ短調]
◆オイゲン・ヨッフム/ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団(1949)

[第9番 ニ短調]
◆ジークムント・フォン・ハウゼッガー/ミュンヘン・フィルハーモニー管
 い弦楽団(1938)
◆カール・シューリヒト/ベルリン市立歌劇場管弦楽団(1943)

※太字はかふぇ あたらくしあ でも所蔵

一部の楽章を録音したもの(ex:クレメンス・クラウス/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による「交響曲 第4番」の第三楽章 など)がいくつかあるが、上記がSPレコード時代に録音されたブルックナーの交響曲全曲のスタジオ・セッション録音のすべてである。その数、合計13セット。
第00番、第0番、第1番、第2番、第3番、第6番の全曲録音は、LPレコード時代まで待たなければいけなかった。
これは同時代の交響曲作家、ブラームスの4曲と比較すれば明らかに少ない。
(参考) ブラームスの交響曲のSPレコードのリリース数
第1番 ハ短調:14 / 第2番 ニ長調:14 / 第3番 ヘ長調:11 / 第4番 ホ短調:12 / 総計:51

その大きな理由は、SPレコード録音期、ブルックナーの交響曲の受容が進んでいなかったことにある。
ブルックナーはまだポピュラーな作曲家とは言えず、正当な評価も下っていなかった。そんな作曲家の、しかもSP盤7枚、8枚,9枚を要する作品を録音して発売することは、レコード会社、指揮者、オーケストラにとって大きなリスクが伴うことだった。

例えば1930年(昭和5年)当時、一世帯あたりの平均月収は61円50銭。それに対してSPレコード1枚の価格は1円30銭。仮に7枚組のブルックナーの交響曲のSPレコードを購入すれば9.1銭。ブルックナーの交響曲1曲のSPレコードが月収に占める割合は14.8%ということになる。
一方現代社会に目を転じれば、月収30万の独身サラリーマンが、ブルックナーの交響曲1曲のCDを3,000円で購入したとしたら、月収に占めるそのCDの割合は1%に過ぎない。1930年の15分の1の価値だ。
ましてやサブスク時代に突入し、「1曲いくら」という概念さえない現代においては、ブルックナーの交響曲を聴くことは「ただ同然」だ。月収と比較することすらこと自体無意味である。
レコードがとてつもなく贅沢品だったSPレコード時代に、一般庶民がブルックナーの長大なシンフォニーを自分の手元に置くことに、どれだけの決意、覚悟が必要だったことか?結果、ブルックナーの交響曲を家庭で聴けるのは上級国民、富裕層、音楽評論家だけだったと言っていい。

当時ブルックナーの受容が何故進んでいなかったか?
それはひとえにブルックナー作品の楽譜問題に拠るところが大きい。

アンスフェルデンのブルックナー生家(2018・筆者撮影)

よく知られているようにブルックナーは作曲し終わった自分の作品に自信が持てず、何度も改稿し、一つの作品に複数の「稿」が存在する作品が多い。また、「師の作品をとにかくステージに上げたい」という一途な気持ちではあったものの、弟子たちが師の意図とはかけ離れた、聴衆が好みそうなワーグナー風のオーケストレーションを勝手に施した、所謂「改訂版」での演奏が20世紀中盤まで習慣化していた。
そんな状態であったから、作品の正当な評価が定まらず、演奏会ならまだしも、記録的色合いも濃いレコード録音にメーカーも指揮者も踏み切れなかったのは、ある意味当然であろう。そんな状況から脱し始めたのは、1927年に国際ブルックナー協会が設立され、ウィーンの音楽学者であるローベルト・ハース(1886–1960)が、1935 年から 1944 年にかけて番号付き交響曲のうち、第3番を除くすべての交響曲の校訂を行い、所謂「ハース版」が出版されたのと時を同じくする。
ハースの後任であるアントン・ノヴァーク以降の校訂者の仕事と比較すると、ハースの「1曲について決定稿は一つだけ」、時にはブルックナーが残した複数の異なる稿を合成することも辞さなかった、という校訂方針は、現在では恣意的で史料的根拠がない、として批判されることもままあるが、「原典版」が出版されたというのは、ブルックナーの演奏史、受容史にとっては大きなターニングポイントであり、価値ある業績と言っていい。

先ほど掲出したSPレコ―ド時代のブルックナーの交響曲は、ほぼこのハース版に拠っている。多くの盤の録音年がハース版刊行時期と重なっており、この点からもハース版の発刊とレコード録音の活性化に因果関係があるのは明らかである。

先のSPレコード・リストで、「ブルックナーの交響曲の入門曲」と位置づけられ、最もポピュラーな作品と言われる第4番≪ロマンティック≫が、ベームとヨッフムの2セットしかないのに対し、それに次ぐ分かり易さを備えていると言われる第7番が6セットも録音されているというのも、楽譜の稿や版の問題と関係がないとは言えない。
ブルックナーは珍しく第7番においてはほとんど改稿作業をしておらず、弟子たちによる改訂版とハース原典版の間に大きな差異がない。それに対し第4番には少なくとも4つの稿が存在し、ブルックナーの交響曲の中で稿については最も複雑さを極めている。
加えて第7番は生前ブルックナーの作品の中で最初に大ヒットした曲で、ブルックナーが世に認められるきっかけとなった作品であり、総じて指揮者、レコード会社はストレスなく第7番を演奏し、録音することができたのであろう。

そんな中、SPレコード時代にブルックナーの交響曲を複数以上レコーディングした指揮者は、オイゲン・ヨッフム(4曲)、カール・シューリヒト(2曲)、そして本日の主役、カール・ベーム(2曲)の3人だけである。

ヨッフムはその後LP時代に全集録音を2回行っている。また複数のライブ盤を今でも聴くことができる。
シューリヒトはLP時代にハーグ・フィルと7番、そしてそのオリジナル盤は、ステレオ初期LPの稀覯盤として驚くほどの高値で現在でも取引されているウィーン・フィルとの3番、8番、9番、の4曲をセッション録音しているのに加え、かなりの数のライブ録音を現在では聴くこともできる。
そしてベームは、1970年代、指揮者を変えながら完成した「ウィーン・フィルのブルックナー交響曲全集」の中でも、特に名演との誉れの高い3番と4番、その後、同じくウィーン・フィルと7番、8番をセッション録音している。

カール・ベームのドレスデン国立歌劇場(ゼンパー・オーパ)音楽総監督時代(1934-1943)については、「邂逅」シリーズのVol.14の「ナチス時代のブラームスのコンチェルト」で、ヴォルフガンク・シュナイダーハンがソロを弾き、ベームとドレスデン・シュターツカペレ(国立歌劇場オーケストラ)が伴奏したヴァイオリン協奏曲のレコードを紹介する際、詳細にご紹介した。
極めて簡潔に言えば「ナチス時代のドレスデンにあって、ベームはナチスと『付かず離れず』の関係を維持し、その保護もあり、充実した指揮活動を行った」ということになる。
ベームは生前「ドレスデン時代は自分の指揮者人生の中でも最も充実していた時期だった」と回顧している。
それを表すかのようにレコーディング活動も活発で(本人の意志よりも、ナチスの意図=プロパガンダがそうさせていた)、独エレクトロ-ラにシュターツカペレと残した録音は、復刻されたCDにして14枚分にも及ぶ。

2曲のブルックナーが録音された1936年、37年、ベームは満42歳。
1921年、音楽総監督ブルーノ・ヴァルターの招きでバイエルン国立歌劇場の第四指揮者となり、1927年にダルムシュタット市立歌劇場音楽監督、1931年にハンブルク国立歌劇場音楽監督をつとめ、1934年にドレスデン国立歌劇場音楽総監督の地位に登り詰めたベームは、当時の音楽潮流である即物主義を志向する指揮者であった。
トスカニーニ同様、指揮者としてはその潮流を牽引したリヒャルト・シュトラウスとの親交はハンブルク時代から始まり、ドレスデン時代の二人の充実した関係から、ベームは音楽総監督就任の翌35年にシュトラウスの『無口な女』の世界初演を行い、さらに1938年には作曲者から献呈された『ダフネ』の世界初演も行った。
ナチス抜きでは語れないベームのドレスデン時代ではあるが、彼自身の言葉を待つまでもなく、この時代のベームはドイツ的伝統を堅持しつつも、新しさも兼ね備えたドイツを代表するに相応しい指揮者となっていた。

なお、いずれの曲も真のオリジナルSP盤はドイツ・エレクトロ-ラであるが、先の大戦で国中が焦土と化したドイツ国内での戦前・戦中のSPレコードの残存数は極めて少ない。よって現代においてエレクトロ-ラ盤でベームのブルックナーを聴くのは至難の業だ。
イギリスHMV盤とアメリカVICTOR盤はそれぞれの国でのオリジナル盤ということになり、やはり現在良いコンディションのセットを見つけ出すのは決して容易くないが、エレクトロ-ラ盤に比べればまだましである。
かふぇ あたらくしあが所蔵しているのは、第4番が米VICTOR盤で、第5番が英HMV盤。
HMV盤の第5番は整った音ではあるが、今一つ音が前面に出切っていないようなもどかしさが若干ある。録音レベルもあまり高くはない。


対して第4番の米VICTOR盤はお国柄か、骨太でガツンと肝に響き渡るようなクリアな音色で、カッティング・レベルも高い。
本日は第5番をより太いラウド針で演奏することで、第4番の音量、音質に近づける工夫を行ってみる。

[曲目解説] ※チャットGPTの生成テキストを一部加筆、修正。
交響曲 第4番 変ホ長調 ≪ロマンティック≫ (WAB 104)
交響曲第4番変ホ長調 『ロマンティック』は、1874年に初稿が完成した交響曲です。この作品は、ブルックナー自身が「ロマンティック」と名付けたことから、その名で親しまれています。ブルックナーの交響曲の中でも特に親しみやすく、演奏頻度が高い作品です。
この作品は、ブルックナーが何度も改訂を重ねたことで知られています。初稿は1874年に完成しましたが、1878年に第2稿が作成され、第3楽章が全面的に書き換えられました。さらに1880年には第4楽章が大幅に修正され、これが第2稿(1878/1880年稿)と呼ばれます。1881年にはウィーンで初演され、1886年にはニューヨークでも初演されました。
全体は4楽章構成で、第1楽章はホルンのソロが印象的な「夜明け」を描写しています。第2楽章は「深い森」を表現し、第3楽章は「狩り」の情景を描いています。第4楽章はダイナミックなフィナーレとなっており、全体を通してロマンティックな雰囲気が漂います。
この交響曲は、ブルックナーの独特の作曲技法である「ブルックナー開始」や「ブルックナー休止」が用いられており、彼のスタイルを確立した作品とされています。特に第2稿(1878/1880年稿)ノヴァーク版がよく演奏されており、ブルックナーの代表作の一つとして広く愛されています。

交響曲第5番 変ロ長調 (WAB 105)
この作品はブルックナーの交響曲の中でも特に壮大で複雑な作品の一つです。この交響曲は1875年から1878年にかけて作曲され、対位法の技法が多用されているのが特徴です。ブルックナーはこの作品で、バロック音楽の影響を受けたフーガやカノンなどの技法を駆使し、緻密な構造を持つ楽章を作り上げました。
第1楽章は荘厳な序奏から始まり、続くアレグロでは力強い主題が展開されます。第2楽章のアダージョは、深い感情と美しい旋律が特徴で、宗教的な雰囲気が漂います。第3楽章のスケルツォは、リズミカルで活気に満ちた部分と、穏やかなトリオ部分が対比されます。最後の第4楽章は、フーガとコラールが組み合わさった壮大なフィナーレで締めくくられます。
初演は1894年にフランツ・シャルクの指揮で行われましたが、これは弟子たちが楽譜に大幅に手を入れた所謂改訂版であり、ブルックナーはその初演に立ち会っていません(弟子たちに対しての抗議の意とも言われている)。結果彼は生前この自作を聴く機会に恵まれませんでしたが、彼自身はこの交響曲を「対位法の傑作」と称し、その技法の完成度に自信を持っていました。

ザンクト・フローリアン大聖堂オルガン台直下地下
ブルックナーの柩(2018・筆者撮影)

(20240915 K.K.)

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