見出し画像

クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #113~アルトゥール・ロジンスキ R.シュトラウス『英雄の生涯』

アルトゥール・ロジンスキ

アルトゥール・ロジンスキ(Artur Rodziński, 1892年1月1日 - 1958年11月27日)という名を聞いて、アメリカ・ウエストミンスター・レーベルでの数々の音盤をイメージする音楽ファンは多いだろう。

戦後、アメリカのレコード・レーベルはヨーロッパ、特にウィーンに進出して、レコード録音を積極的に行った。オーストリア・シリングがアメリカ・ドルに対し極端に安かったので、敗戦国の属国オーストリアにとっては外貨獲得、戦勝国アメリカにとっては音楽の都にあまた存在するアーティストを起用したカタログの整備、というwin‐winの関係が成り立った。
第二次世界大戦という負の遺産が生んだ稀有な幸福遺産である。

ロジンスキはウエストミンスターに彼が得意とするロマン派や近代のレパートリーを録音し、主役ではないながらおそらく彼の最も有名なレコード、ウィーン・フィルハーモニーの首席レオポルド・ウラッハのモーツァルト『クラリネット協奏曲』の伴奏指揮者なども務めた。

アメリカ時代のロジンスキ

しかし、ロジンスキの絶頂期はその晩年のヨーロッパ時代ではなく、それ以前のアメリカ時代にあった。

1929-1933  ロスアンジェルス・フィルハーモニック 音楽監督
1933-1943  クリーヴランド管弦楽団 音楽監督
1943-1947  ニューヨーク・フィルハーモニック 音楽監督
1947-1948  シカゴ交響楽団 音楽監督

アメリカ・メジャー・オーケストラを率いたこの輝かしいキャリア。
事実、ロジンスキはアルトゥーロ・トスカニーニに認められ、その音楽の近似性も含め”ミニ・トスカニーニ”と呼ばれていた。直截な音楽フォルム、質量が多いマッシブな音、ダイナミックな音楽の振れ幅・・・。残された録音からも彼がとてつもない力を持った指揮者であったことは明白である。

ただし、クリーヴランド以外のポストの在任期間は短い。
何故か?
それは”ミニ・トスカニーニ”であった彼は、その性格も”ミニ・トスカニーニ”だったからだ。
ポストに就任すると完璧主義者であるロジンスキは、メンバーの大幅な入れ替え、プログラミングなど、独裁的な楽団改革=”血の制裁”を断行することになる。
それが楽団メンバーや運営側とのトラブルを招き、楽団を去ることになる、というわけだ。

シカゴを去った後、ヨーロッパに戻ったロジンスキは、冒頭に綴ったようにウエストミンスターに数多くの録音を残したが健康を害し、1958年11月27日、客演中のアメリカ・シカゴ・リリック・オペラでワーグナー『トリスタンとイゾルデ』を指揮中に倒れ、救急搬送先のボストンの病院で亡くなった。享年66歳。

そんなロジンスキの指揮活動が最も充実していたのは、クリーヴランドの音楽監督を務めていた時期だろう。
クリーヴランド管弦楽団はロジンスキ退任後、エーリヒ・ラインスドルフ、そしてジョージ・セルという同じく”ミニ・トスカニーニ”色を感じさせる指揮者をそのポストに招く。
よほど打たれ強い(マゾな)体質でありながら、結果的に精緻なアンサンブル能力を身に着け、アメリカ・ビッグ5の安定的地位を得た、ということになる。

【ターンテーブル動画】

そんなロジンスキとクリーヴランドの代表的名演ながら、CD復刻などにはあまり恵まれていないと思われるリヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』。

作曲者自身の指揮ぶりを連想させる即物的な演奏は、以前ご紹介した同じく78rpm時代を代表する名盤、ウィレム・メンゲルベルクとニューヨーク・フィルハーモニックのロマン的で濃密な演奏とは大きく異なる解釈。

とにかく、カッコいいロジンスキの快演を!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?