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Open Your Eyes Part3(明治維新と外国勢力の関係)

プロローグ

 『Open Your Eyes Part1』は「日本銀行創設」の流れを追い、『Open Your Eyes Part2』では「明治維新」から現代につながる歴史を追ってきました。

 今回は、明治維新に潜む「キリスト教」の影響と「外国勢力の暗躍」をお伝えします。



第1章:アーネスト・サトウ

 明治維新の影の立役者であるアーネスト・サトウは、幕末から明治初期にかけて活躍したイギリス外交官で、1843年にドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(当時はスウェーデン領)の父デーヴィッド、イギリス人の母マーガレット(旧姓メイソン)の三男としてロンドン北部クラプトンで生まれました。

ヴィスマール市旗と紋章

 このヴィスマールというドイツの小都市。市旗と紋章がダン族の象徴になっています。つまり、海賊の拠点だったことがうかがえます。

「ロンドン・ユダヤ人通り」

 サトウの父親はロンドン移住後、結婚してロンドン塔近くのジューリーストリート(Jewry Street)に住み、不動産関係の金融業を営んでいました。

 なんとサトウの両親はイギリスのユダヤ人ゲットーの住人でした。ちなみにサトウという名前は「日系(日本人)」を示すものではありません。

「ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの記念碑」

 サトウは、プロテスタント系のミル・ヒル・スクールを首席で卒業後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に進学。

 「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れ、1861年にイギリス外務省(領事部門)へ通訳生(首席合格)として入省。

 1862年9月8日にイギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任しました。ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)の中庭には、日本人24名の名前が刻まれた記念碑があります。安倍元首相も長州ファイブの記念碑を視察しています。

外国人宣教師と成仏寺

 サトウは、宣教師の宿舎になっていた横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや医師の高岡要、徳島藩士の沼田寅三郎から日本語を学んでいます。ここは後述し、イギリス人外交官による日本の占領戦略について探っていきます。



イギリス外交官の暗躍

左:エドマンド・ハモンド外務次官
右:ハリー・パークス駐日英国大使

日本において体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない。

事実、その変化はわれわれの考え方と異なる仕方でおきるかもしれないが、それが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。

 外務次官ハモンドと駐日英国公使パークスとの往復私信に表れているとおり、外国による支配を知らしめることなく、日本という新市場を掌中に収める巧妙な策略が立てられています。

 侵略戦争を繰り広げた上で支配するか、緻密な情報収集の上に日本人の意識構造を理解したうえでの選択だったと思われます。

 薩摩・長州に政権をとらせて表面上は「国内の政変」と見せかけ、裏から市場を支配することにしました。その結果、日本人は支配されたとは夢にも思わず、新時代のお手本としてイギリスを仰ぎました。

「英国策論」

われわれは、遠からぬ日に現行の条約が廃棄され、いっそう包括的で満足の行く条約すなわち、天皇および連合諸大名−彼らが日本の真の支配者であるとの公正な協約がそれにかわることを切望して、このことを解決させる力を持っているひとびとの手に、この問題をゆだねるものである。

「英国策論」より

 この論文はまもなく和訳されて『英国策論』というタイトルで出版され、大名たちの手に渡って幕府は大慌てしました。そして2ヶ月後の5月に「改税約書」に調印し、各藩の自由外国貿易が実現します。

 論文はいつの間にか和訳され、流布してしまったとされていますが、サトウ自身によるものという疑いが濃厚です。

 それが事実なら、薩長に勢いをつけ幕府を窮地に追い込んだ、実に効果的な工作で弱冠22歳の若者によるスゴイ仕事です。

「敷和」と書かれたサトウ直筆の書

 ただ、サトウはイギリスの外交官兼通訳として暗躍していただけではなく、日本を愛していたと思います。「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名を使い、武田兼を内妻とし3人の子をもうけています。また、雅号を薩道静山と名乗り、見事な作品を残しています。

 ここから、サトウに日本語を教えたサミュエル・ロビンス・ブラウンについて触れていきます。



第2章:サミュエル・ロビンス・ブラウン

左:グイド・フルベッキ
中央:サミュエル・ロビンス・ブラウン
右:デュアン・シモンズ

 サミュエル・ロビンス・ブラウンは、アメリカ・オランダ改革派(カルヴァン派)教会から派遣された宣教師でイェール大学を卒業しています。1859年に福沢諭吉を治療し、親交があったデュアン・シモンズ、フルベッキ写真で有名なグイド・フルベッキと共に日本派遣宣教師に選ばれ、来日します。

 そしてブラウンは、先に成仏寺に間借りしていたジェームス・カーティス・ヘボンと共に、日本語の学習と聖書の和訳を始めました。

 また、1866年に6名の薩摩藩士を長崎から密出国させ、薩摩藩第二次米国留学生を母校のモンソン・アカデミーに入学させています。

 この中に初代日銀総裁の吉原重俊がいます。吉原重俊については『Open Your Eyes Part1』で触れていました。ここで、先述のヘボン氏に焦点を当てます。



ジェームス・カーティス・ヘボン

ジェームス・カーティス・ヘボン

 ジェームス・カーティス・ヘボンは、幕末に訪日し、主に横浜で医療活動に従事していました。また、成仏寺で先述のブラウンと聖書の日本語訳に携わりました。つまり、日本のキリスト教布教の大立役者です。

 また、施療所とした宗興寺では、5ヶ月間で約3,500人の患者を無料で診療し、外科手術も多数行いました。

※日本語訳聖書の現存する最古の断片は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが編纂した『日本のカテキズモ』の訳稿に近い和文です。

 また、漢字に長けていたヘボンは、初の和英辞典『和英語林集成』を編纂し、それによってヘボン式ローマ字を広めた人物としても知られています。

 ヘボン式ローマ字と聞いて「?」となる人が多いかと思いますが↑の画像を見れば「あれか!」となると思います。

 1863年に横浜に男女共学のヘボン塾を開設します。また、ヘボン塾の女子部は、1871年に同僚の宣教師メアリー・キダーによって「洋学塾」として独立し、後に「フェリス女学院」の母体となます。

「明治学院大学『SAINTS』ロゴ」

 そしてヘボンは、1887年にヘボン塾をはじめとする学校を統合し、私財を投じて明治学院(現:明治学院高等学校・同大学)を設立し、明治学院初代総理に就任しました。キリスト教系の学校はこうして作られていきます。

 ちなみに明治学院大学のアメフト部の名前は「SAINTS(セインツ)」でロゴは「フルール・ド・リス」です。フルール・ド・リスに関しては↓をチェックしてください。

 また、ヘボン塾の出身者には高橋是清、日英同盟を締結した林董、三井財閥を支えた益田孝など、明治期に活躍した多くの人材がいます。ここも重要なので、次に高橋是清を追っていきます。

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