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堀内健と「ラジオ」と僕

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2019年9月1日

僕はその日、ネプチューンの堀内健さんがゲスト出演したあるラジオ番組にメールを送っていた。
番組内で僕のメールが採用されたのだが、次の瞬間ホリケンさんが信じられないような言葉を口にした。


「ブーメランチャンネルって、俺がラジオやってる時にハガキくれてた!」


僕がホリケンさんのラジオにネタを投稿していたのは、その日から遡って約15年前の話。
ホリケンさんは、15年ぶりに僕のラジオネームを耳にしたはずなのに、僕の名前を覚えていてくれた。
まさかラジオネームを覚えていてくれているとは思っていなかったので、本当に嬉しかった。

そしてその翌日、僕とホリケンさんは15年振りに再会する事になる。

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学生時代、深夜ラジオを聴くのが何よりも好きだった。
深夜1時から3時まで毎晩オールナイトニッポンを聴いていた。
一番最初にハマった番組は、ナインティナインのオールナイトニッポン。
当時まだ20代だったナイナイのお二人が、イケイケの状態でラジオをやっていた時代。
二人のトークが本当におもしろかった。
ラジオから流れてくる岡村さんと矢部さんの声を聴くのが、いつしか一週間の中で一番楽しみな時間になっていた。

ナイナイのオールナイトを通して「ハガキ職人」という言葉を初めて知った。
ハガキ職人とは、ラジオ番組の常連投稿者の事を指す。
たった一枚のネタハガキで、ラジオパーソナリティーや全国のリスナーたちを笑わせるハガキ職人の存在が、純粋にかっこいいなと思った。
そしてナイナイのお二人から名前を認知されているハガキ職人も数人いて、それがとてもうらやましかった。
そんなハガキ職人に憧れて、僕もネタハガキを投稿するようになった。

生まれて初めてハガキが読まれた番組はナインティナインのオールナイトニッポン。
岡村さんが僕のハガキを読んでくれた。
あの日の事は、今でもはっきり覚えてる。
ニッポン放送の電波に乗って、僕のラジオネームが全国に流れた瞬間、今までに味わった事のない衝撃が体の中に走った。
僕が書いたハガキを、僕が書いた文字を、テレビでいつも見ていたあの岡村さんが読んでくれ、その声がラジオから流れてきた。
全部が夢みたいな出来事だった。
その日は興奮して眠れなかった。

それから僕は、ラジオ番組の投稿へのめり込む事になる。
振り返ると、僕の青春はラジオ一色だった。

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2002年10月

ニッポン放送で「堀内健とビビる大木のオールナイトニッポンSUPER FRIDAY!」というラジオ番組がスタートした。
金曜日の22時から25時までの3時間、僕は毎週そのラジオを夢中で聴いていた。
ネタメールも、かなり気合いを入れて送っていた。
なぜならパーソナリティーの二人の事が好きだったから。

物心がついた頃、ボキャブラ天国というテレビ番組が流行っていた。
そこに出演していたネプチューンが大好きだった。
3人のコントがとにかくおもしろくて、毎週ボキャブラ天国を見るのが楽しみでしかたなかった。
ボキャブラ以外にも、ネプチューンが出るテレビは全てチェックしていた。
3人のコントが好きだったので、ネタ番組に出演する時はビデオに録画して何度も何度も繰り返して見ていた。
それぐらい、少年時代の僕はネプチューンに夢中だった。
そんなネプチューンの中でもホリケンさんが特に好きだった。
当時から、ギャグもトークもめちゃくちゃおもしろかったし、僕が大好きな「ネプチューンのコント」のネタ作りを担当していたホリケンさんを、子供ながらに「何でこんなにおもしろいコントが思いつくの?すごいな〜!」と尊敬の眼差しで見ていた。
ちなみにネプチューンのネタで一番好きなのは、セクシーポリスメン。
分かる人いますか??(笑)

そしてビビる大木さんも心の底から大好きな芸人。
ホリケンさんとのラジオが始まるまで、大木さんは一人で「ビビる大木のオールナイトニッポン」というラジオをやっていた。
僕はその番組に毎週ネタを投稿していた。
僕が毎週欠かさずネタを投稿するようになった一番最初のラジオ番組が、実は大木さんのオールナイトニッポンなのだ。
大木さんとの思い出は以前こちらのnoteに書いたので、後で読んでくれたら嬉しい。


堀内健とビビる大木。
そんな大好きな二人がコンビを組んで放送するラジオ番組だったので、自然と投稿にも力が入った。


どうしてもこのラジオ番組の「ハガキ職人」になりたかったから。

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2003年4月

金曜22時から放送されていたホリケンさんと大木さんのラジオ番組は、水曜深夜1時に引っ越しをし「堀内健とビビる大木のオールナイトニッポン」として再スタートを切った。

僕は変わらずネタを投稿し続けた。
番組でネタが採用されると「ホリウチクビ」と「大木ボンス」というノベルティグッズがもらえた。
番組でたくさんネタを読んでもらい、こんなにもたくさんのノベルティグッズをもらった。
増え続けていくノベルティグッズの山を見ながら「自分もハガキ職人の仲間入りができたのかな?」なんて思って、嬉しくなったりもした。

この番組ではネタが読まれるごとにポイントが貯まっていき、ある一定のポイントに達すると様々な特典が受けられた。
その特典の中で、ホリケンさんと大木さんの直筆レターをもらった事がある。
二人のサインとメッセージが入った、世界でたった一枚しかないこの手紙が自宅に届いた時は本当に嬉しかった。

そして更にポイントが貯まると、二人と番組外で5分間の生電話もできた。
ある日のオールナイトニッポンの収録前。
僕の携帯に着信があった。
電話に出てみると、相手はホリケンさんだった。

「ブーチャ?ブーチャ?あっ、勝手に名前略してごめん!」

ホリケンさんが、いきなりこんな感じで話けてくれた。
テレビのままの愉快なホリケンさんだったから、思わず笑ってしまった。
僕が「ボキャブラ時代からずっと好きです!」と伝えると、ホリケンさんはすごく喜んでくれて「え~、マジ~!?嬉しいよ~!潤ちゃんと泰造にも言っとくよ~!」と言ってくれた。
ホリケンさんは、おもしろくて、そして優しくて、本当にいい人だった。

あっという間に5分は過ぎ、ホリケンさんとの電話の時間は終わった。
電話を切った後「うわ〜、今俺ホリケンさんと電話でしゃべってたんだよな〜!すげ~!」と思い、すごく感動したのを今でも覚えている。
少年時代、ネプチューンが大好きでボキャブラ天国を毎週夢中で見ていた僕にとっては、まさに夢のような出来事だった。
ずっとテレビで見ていた憧れのホリケンさんとしゃべれたのだから。

別の日に、大木さんからも電話がかかってきた。
その日は「堀内健とビビる大木のオールナイトニッポン」の最終回当日だった。
二人を出待ちするため、ニッポン放送へ向かっている電車の中で電話がかかってきたので、よく覚えている。
すぐに途中下車して駅のホームで大木さんとしゃべった。

今でもすごく心に残っている事があって、大木さんとの5分間の生電話が終わり電話を切ろうとしたら、大木さんが「ブーメランチャンネル!ちょっと待ってて!小野寺さんがしゃべりたいって言ってるから!」と言った。

小野寺さんとは、堀内健とビビる大木のオールナイトニッポンを担当していた放送作家だ。
小野寺さんが電話に出て「今まで毎週メールを送ってくれてありがとう!本当に助かったよ!ありがとう!」と言ってくれた。
まさか放送作家の方から感謝の言葉を言われるとは思ってもいなかったので、本当に嬉しかった。

そしてお礼を言いたいのはこちらの方だった。
「毎週楽しい放送をありがとうございました!」って。

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2004年3月24日

堀内健とビビる大木のオールナイトニッポン最終回の日。
僕はこの日、ホリケンさんと大木さんを出待ちするためにニッポン放送へ行った。
ちなみに、当時のニッポン放送はお台場にあった。

お台場の街を歩きながら、携帯ラジオで最終回の放送を僕は聴いていた。
ありがたい事に、最後の放送で僕のメールがなんと7通も採用してもらえた。
大木さんがメールを読む時「またブーメランチャンネルですよ!」と何回も言ってくれた。
このラジオ番組のハガキ職人になりたくて、毎週たくさんのネタを送り続けてきたので、最後に有終の美を飾れたような気持ちになり本当に嬉しかった。

ラジオの放送も終盤に差し掛かってきたあたりで、僕はニッポン放送へ向かった。
当時のニッポン放送はフジテレビ内にあったため、フジテレビの前で出待ちをした。

しかし大きなフジテレビのどこから二人が出てくるのか分からず、僕は困っていた。
すると近くにいた二人組の女の子に「ラジオの出待ちですか?」と声をかけられた。
「はい」と答えると「もしかして職人の方ですか?」と言われたのでラジオネームを言ったら「え~!本当ですか!」みたいな感じで驚いてくれた。
当時はSNSが無い時代だったから、リスナーとの交流なんて一切無かった。
他のリスナーと繋がりようが無かった。
だからこの日、自分と同じラジオ番組を聴いているリスナーと直接会えて、すごく嬉しかった。
そしてラジオを通して僕の名前まで知っていてくれていたので、とても感動した。

彼女たちと立ち話をしながら、ホリケンさんと大木さんがどこから出てきても見つけられるように一緒に協力して出待ちをしようとなり、僕たちは少し間隔を空けてフジテレビの出口を眺めていた。

放送終了から数十分後、一緒に出待ちをしていた女の子が「キャー!」と声を出した。
急いでそちらの方へ向かうと、なんと車に乗ったホリケンさんがいた。
ホリケンさんは、車の窓を開けながら出待ちのファンの対応をしていた。

そんなホリケンさんに近づき、僕は緊張しながら「ブーメランチャンネルです!」と声をかけた。
するとホリケンさんが「おお~~~!」と驚きながら、すごく優しく接してくれた。
車に乗っていたから、あまり話せなかったけど、会えただけで本当に嬉しかった。
ホリケンさんは写真も撮ってくれた。
写真を見れば分かると思うが、終始笑顔で対応してくれた。
この人にメールを読んでほしくて、この人を笑わせたくて、僕はずっとずっとネタを投稿していた。
ラジオの最終回でやっと会えた憧れの人。
感動したな。

僕がホリケンさんと話していると、一緒に出待ちしていた女の子が再び「キャー!」と声をあげた。
そちらを見ると、今度は大木さんが徒歩でフジテレビから出てきた。
僕はホリケンさんにお礼を言ってから、急いで大木さんの方へダッシュした。
するとそんな僕の姿を見た、女性スタッフ?女性マネージャー?の方が「大木君ー!ちょっと待ってー!出待ちの子が来てるよー!」と大木さんの足を止めてくれた。
そして大木さんの元へ辿り着き「ブーメランチャンネルです!」と言うと、大木さんが「来ちゃったの~!?」と言いながら会話に付き合ってくれた。
深夜3時過ぎで疲れているはずなのに、5分間ぐらい僕としゃべってくれた。
しかも大木さんと写真を撮ってもらった後、大木さんが「ブーメランチャンネル!〇〇とも写真撮りたいだろ?」と言いながら、当時のマネージャーと僕のツーショット写真を、大木さんがカメラマンになって撮ってくれた。
その後もカメラを持った大木さんが「ブーメランチャンネル!〇〇とも写真撮りたいだろ?」と言いながら、もう一人のマネージャーとのツーショット写真も撮るというミニコントみたいなやりとりをしてくれた。
サービス精神旺盛で、めちゃくちゃ神対応してくれた。
大木さんにもやっと会えて感動したな。


当時を振り返ると、堀内健とビビる大木のオールナイトニッポンでネタが読まれたくて、毎日必死でネタを考えていた。
本当に毎日毎日考えていた。
全国のリスナーから届くメールの中から生き残り、2人の元へなんとか自分のメールが届くように、悩みながら、苦しみながら、もがきながら、一枚一枚ネタを書き続けていた。


結果的に、二人にネタをたくさん読んでもらえたし、二人に直接会う事もできたし、夢みたいな時間をたくさん過ごさせてもらった。
そういえば、一度番組に電話で出させてもらった事もあって、ビタースイートサンバをバックに三人でトークさせてもらった事もあったな。
すごい経験をさせてもらったよな。
普通に生活していたら絶対に関わる事のできない、テレビの向こう側にいたホリケンさんと大木さんに、ラジオの投稿を頑張ったおかげで、ちょっとだけ近づけた気がした。


堀内健とビビる大木のオールナイトニッポンは、僕の青春そのもの。
ホリケンさんと大木さんのおかげで、最高の青春時代が送れた。
そんな二人に、心から感謝の気持ちを伝えたい。
楽しいラジオをやってくれて、本当に本当にありがとうございました。


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2019年9月1日

堀内健とビビる大木のオールナイトニッポン最終回の日から15年後。

この日、ニッポン放送の「土田晃之日曜のへそ」というラジオ番組にホリケンさんがゲスト出演した。
事前にネタメールを募集していたので、僕はメールを投稿していた。
コーナーが始まり、土田さんがメールを読み始めた。
嬉しい事に一通目で僕のお便りが採用された。


土田さんが「ブーメランチャンネル」と僕のラジオネームを言った瞬間、ホリケンさんが「おぉ!」と声を漏らした。


そしてホリケンさんが「ブーメランチャンネルって、俺がラジオやってる時にハガキくれてた!」と言ってくれた。


まさか僕の名前を覚えててくれているとは思っていなかったので本当にびっくりした。
ホリケンさんは、僕のラジオネームを15年振りに聞いたはずなのに、すぐに反応してくれた。
胸がいっぱいになった瞬間だった。


でも本当に驚いた。
だって15年前にやっていたラジオ番組のリスナーの名前を、普通覚えてますか?
こんな長い年月が経ってしまっていたら、名前なんて忘れちゃって当然ですよね?
でもホリケンさんは覚えていてくれたんです。
15年前のラジオの、リスナーの名前を。
嬉しかったな。

この日の放送では、僕のネタが3通も採用してもらえた。
ネタ採用者の中から1名のリスナーに、番組からグッズのプレゼントがあったのだが、ホリケンさんが僕を当選者に選んでくれた。
後日、ホリケンさんと土田さんのサインが入ったガンプラが届いた。
メールを読んでもらえただけでも嬉しかったのに、ホリケンさんが名前を覚えていてくれて、さらにプレゼントまでもらえて、本当に幸せな気持ちになった。



ホリケンさんが僕のラジオネームを覚えていてくれた事がとにかく嬉しくて、このラジオの翌日に僕はホリケンさんを15年振りに出待ちしに行った。

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2019年9月2日

この日、ニッポン放送で「出川哲郎と堀内健のオールナイトニッポン」がオンエアされた。
生放送終了後の深夜3時過ぎ、有楽町のニッポン放送へ出待ちしに行った。

出待ちを始めて数十分後、ニッポン放送からホリケンさんが出てきた。
ホリケンさんと会話をするのは、お台場で出待ちをしたあの日以来15年振りだ。
あの時と同じようにドキドキしながらホリケンさんに近づき「ブーメランチャンネルです!」と声をかけたら、ホリケンさんが「おお~~~!」とビックリしてくれた。
そしてツーショット写真を撮ってもらい、サインをしてもらい、握手もしてもらった。

ホリケンさんは、15年前に出待ちをした時と全く同じように、とびきりの笑顔で対応してくれた。
15年前と何も変わらず、僕を温かく迎え入れてくれた。

まるでタイムスリップしたみたいな感覚になった。
堀内健とビビる大木のオールナイトニッポンに夢中で投稿していた、15年前のあの頃に。

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先日、お台場へ久しぶりに遊びに行った。
目的地へ向かう途中、フジテレビの前を通りかかった。
僕はフジテレビの前で立ち止まり、あの日の事を思い出していた。

「ラジオの最終回の日、ここでホリケンさんと会ったんだよな。懐かしいな。」

そんな事を思いながら、しばらく思い出にふけっていた。
ホリケンさんが僕のラジオネームを覚えていてくれたように、僕だってあのラジオの出来事は今でもずっと覚えている。
何年経っても色褪せない、あのラジオの記憶がたくさんある。


僕の青春は、ラジオ一色だった。
ニッポン放送がお台場にあった頃の、遠い昔の思い出話。
堀内健とビビる大木のオールナイトニッポンは、僕にとって青春の全てだった。

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