詩の読み方
はじめに
ブロードウェイ・ブギウギこと櫻井天上火です。最近、5年使っていたTwitterのアイコンを変えました。
ぼくは俳句や短歌、短詩を〈なりわい〉としています。仕事には繋がっていませんが、俳句では大きめの賞も獲りました。
ですが
「なんかよくわからない順番で単語が並んでいるやつ」
詩を読まないみなさんが詩にもっている印象は、そんなところではないでしょうか。
詩とはなにか
実際、平たく言えば、詩は「日常的な言葉遣いから遠く離れてなにかを言い表してみようとする試み」なので、慣れるまで時間がかかる。
その慣れるまでの時間で飽きてしまう、そんなことも少なくない。自分だってそういうふうに、少しだけ読んでやめてしまった詩集がいくつもある。
ただやっぱり詩はおもしろい。なぜなら、さっきも書いたように、詩は、ぼくたちが日常的に使ってしまっている言語をいったん捨てて、もう一度なまの言葉に触りなおし、世界をべつな仕方で見てみる行為だからだ。
この意味で、ぼくが詩にもっているイメージは、アートに近い。たとえば李禹煥の関係項シリーズ。あれらも岩を、もともとあった自然から切り離して美術館においてみるという作品だ。そうすることで岩がもっているいままで見えなかった部分が見える。
詩もこれと一緒で、言葉がいままでおかれたことのない場所におかれたり、使われたことのない意味で使われたりすると、日常世界はバグって変なものを見せてくれる。
このバグが「ポエジー」と呼ばれているものだ。ぼくはポエジーのために、さまざまな言葉遊びをしてきた。
みなさんにもポエジーのたのしみを味わってほしいのだが、他人の作品について書くとなると、これまた難しい。だから、詩をあまり読んだことがなく、それでも読んでみたいと思っている〈友人たち〉に向けて、自分の作品を赤裸々に解説してみたい。これで少しでも「詩ってそういう感じなのね」と思ってもらえればサイコーだ。
そして、この文章を読んだあとには、いろいろな作品を読んでほしい。あわよくばぼくのやつを読んで、感想もほしい。感想をもらえたらもう嬉しくて懐いちゃうね。ちょろいから。
よろしくお願いします。
はじめたころに書いた俳句
わたくし櫻井天上火は、2017年に俳句を書きはじめた。
俳句をはじめて2年目くらいで夏井いつきが選をする句会(句を一人一つ以上提出して選者がいいのを選ぶイベント)に参加した。そのときに提出したのが次の句。
この句を夏井いつきは「いい意味で作者を最も知りたい」と評してくれて、単純なぼくは内心けっこう、というかめっちゃ喜んだ。ありがとう、夏井センセイ。
解説する。この句がどういう風景を指しているかというと、「風鈴が鳴る暗い部屋のなか、薄い月明かりを頼りに目を凝らすと、なんと手足が投げ出されている。恐る恐るもっとよく見てみると、それは単に寝ている女のものだった」、というものだ。
この句を作るときに意識したのは、読む側がどの順番で風景をイメージするかだ。読む人の目にはまず「風鈴の闇」が入る。そこから窓辺や月明かりといった周辺の風景がイメージされ、次に視線が移動し手足が出てくる。そしてオチとして寝ている女という全体が見える。
助詞の「に」と「や」がポイントだ。「に」は空間を作る。「や」はバーンという感じで強調の意味。
語順とこの助詞のおかげで句は、読む順番という時間性と、「女性が寝ている暗い部屋」の空間性を手に入れる。
「をんな」という歴史的仮名遣いは、ちょっと明治大正昭和の文豪(全然読んでないけど太宰とか?)みたいでエロティックだろう、と思ってそうしている。風鈴なんて最近はおいてる家ないしね。
ひねくれものの俳句
そんなこんなで、ひねくれ者がぐにゃぐにゃに捩れながら俳句史の勉強をしつつ、5年間書き続け、溜めたものを芝不器男俳句新人賞という前衛俳句の賞に応募した。次の二句はそういう句だ。
もう十七音も五七五もあったものじゃない。なんでこうなっているかというと、夏井いつきがぼくの句を褒めてから数か月後に出会ったある俳人にハマってしまったからだ。その人の句にめちゃくちゃ影響されてこういう「前衛俳句」を作るようになった。
その俳人は加藤郁乎という。ブギウギのTwitter(@B_boogie_woogie)を見ている人は何回か名前を見たことがあるかも。
加藤郁乎はちょうど澁澤龍彦と同じくらいの時期に文壇で活躍した人だ。澁澤とも仲がよかったらしく、何かの賞の授賞式で女装した郁乎が澁澤にKISSするということもあったらしい。
そんな時代の人だから作風も推して知るべし。たとえばこんな感じ。
すべて『えくとぷらすま』という句集の作品。
すごい。
すごすぎる。
当時バタイユを読みはじめて感激していたぼくは、同時に郁乎にもはまったのだった。そして、ぼくの作品を読んだ数人から「良くも悪くも郁乎の影響がありますね」と言われた。
さて先の二句を解説してみよう。「外在」の句を作ったときは、バタイユのヘーゲル批判とかを読んで哲学的な思考が頭を占めていた。同時に、郁乎が非定型俳句でいろいろな形式に挑戦ていたから、自分もあたらしいフォーマットを作りたくて俳句に「( )」を導入してみた。
「風鈴の闇」の句と同じで、読む人の読む順番を意識している。つまり、読む人はこの句を頭から読む。しかしカッコはふつう読まなくてもいい部分だから、読み飛ばされるカッコの内と外でまったく異なる要素をおいて、それらがうまく絡み合うようにした。
ふつう「自我」は内側にある(内在している)が、「外在する」とすることで読む人はちょっと変な感じがする。いったんこの句を読み終わってカッコのなかをよくみてみると、なんかおどろおどろしい語が並んでいる(「遠雷、ヴードゥーの蜂は這い回る〈色〉」)。
句会でいただいた言葉を借りれば、視覚イメージとしてダリの「目覚めの一瞬前に柘榴の周りを蜜蜂が飛びまわったことによって引き起こされた夢」のようなイメージの連鎖がこのカッコ内にはある。そのシュルレアルさが「外在する自我」という奇妙な語と響き合う。
この句の構造は、ちょっと複雑すぎるところもあるが、自分では気に入っている。俳句は一つが短いから、読み流されてしまう可能性のほうが大きい。これくらい読者にとって謎であるほうが、作品の強度が上がっていいだろう。
ちなみに「蜂」というモチーフは、ぼくのなかでずっとグルグルしている。『偽物語』を読んでからというもの阿良々木火憐が大好きで、以来「蜂」にさまざまなものを詠み込んでいる。あと古い日本語でジガバチを「すがる」と呼ぶんだけど、そういうのも含めてカッコいい。
なぜ「ヴードゥー」なのか、「〈色〉」とはどういうことなのかなどは、割とちゃんと理由があるのだが長くなるので割愛。
こういうけっこう単純で直観的な良さやイメージの連鎖を大切にして句を作っていて、「夜汽車」の句はその典型。自分の句のなかで好きなものを五つ挙げろと言われたらこれはマスト。
一つの句のなかでイメージがめくるめく展開を遂げる、というものを作ろうとした。それで選んだ要素が「夜汽車」「ソルボンヌ」「歌劇のsūtra」。当時のメモを見ていると「夜汽車」と「sūtra」がまずあって、これらは遠すぎるから「カーマ・スートラ」などのインド研究という意味で、パリの「ソルボンヌ」大学をおいてみた。この語は意味的にも二つからちょうどいい距離にある。発音したときの気持ちよさから「ソルボンヌ」の後ろに「昇る」をつけ、「歌劇」は、はじめ「音楽」としたかったが音数の気持ちよさから「歌劇」に。こっちはこっちでより高貴な感じがしていい。
そうしてできたイメージがこれだ。「夜汽車が走っている。だんだんそれは銀河鉄道のように、パリの夜空へ上昇していく。まるでそれは音楽というもののスートラ(極意書)のようだ」。
目眩くイメージだけがあってその内奥には何もないような、つかみどころのない存在感がある。イメージに意味がありすぎると作者の意図や物語、説教くささが増して面白みがなくなると思う。だからこの句の物足りなさというか、深みのなさはぼくが作りたい理想のかたちだと言える。
読者にはこの不可思議さを楽しんでほしいというのが、おこがましいけれども作者の気持ちだ。なんでもかんでも意味があればいいというものではない。ただの想像、ただのイメージ、ただの心象風景。そういうものを理由なく愛することだって必要だ。
ことばのたのしみ
こうした意味と無意味(あるいは非-意味!)の応酬を、書かれた風景だけでなく言葉のレベルでも生じさせようとしているのが次の句。
この句が入っている連作のタイトルは、カモノハシの学名からとった。このカモノハシのような、なんか変だけど愛らしい感じを句に落とし込もうとして作ったのがこの連作。名前が「パラドクスス」だなんてカッコよすぎるね。
なかでもこの句はかなり変だ。「夜汽車」の句のように、ここから風景を引き出すこともできないような構成になっている。というのも、「やがてに似る」という言葉そのものがありえないからだ。しかもそこに「に、に、」と謎の反復が挟まっている。もっとありえないことに、「やがて」に似ているのは「リボン」で、それが「不思議な水」だ、というのだ。
このありえない文法で書かれた破格の言葉の羅列は、しかしなんとなくカモノハシがのそっと陸に上がるような雰囲気をもっている。
この構成はこうやって作った。まず「不思議な水」という語があった。これをほんとうに「不思議」にするためにどうするか。「水」と遠すぎないが、決してくっつかないものとして「リボン」をおいた。「リボンが不思議な水」、これだけでは別に不思議ではないから「リボン」をなんらかの形で修飾しよう。「似ている」という言葉は、よく考えるとけっこう変だな。じゃあリボンが何かに似ていることにしよう。ただ「リボン」と「水」の不思議な関係を壊さない物体は難しい。ではものではない言葉にして、「やがて」をおいてみよう。時間性もはいってけっこういい感じなので、助詞を繰り返しリズムをよくして、シュルレアリスムのようなおどろおどろしい感じは遠ざける。「やがてに、に、似る」。そうしてカモノハシっぽいちょっと楽しい感じの不思議な雰囲気を作る。
単語それぞれがもつ手触りを文法的におかしなかたちでまとめ上げ、ひとつの非-意味的イメージを作り上げたのがこの作品だ。日常世界ではありえない言語が、ありないけれども読めるかたちで存在している。バグだ。この句では風景よりもことばのたのしみ、言語のバグを意識している。
イメージのたのしみ
逆に、イメージのたのしみを意識しているのがこの句だ。
この句から読者が読み取る(と思われる)のはこういうイメージだ。つまり「ひろいひろい菜の花ばたけ。花々を横目にそのあいだを浮遊しながら遠くまですーっと動いていくと、ずっと向こうにへびがいる。へびの視線と移動が直線上に重なり合う。重なってしまって、さっきまで菜の花ばたけにいる人になっていたのに、いつのまにか自分はへびの視線になっている」。
ひとつの句のなかで視点が入れ替わる、あるいは読者自身が変容するという奇妙なイメージをこの句では表現したかった。
それがうまくいっているかはともかく、「どこまで奥の」という言葉は文章に慣れ親しんだ人なら違和感を覚えるに違いない。この違和感が、いつにまにかへびの視線へと変わっているという奇妙さに重ね合わせられる、そういう期待をもってこの句は作られている。
あと「へびにらみ」という言葉は、ポケモンのわざだ。辞書とかには載っていない。ただ「蛇に睨まれた蛙」という慣用句がもとなので、ポケモンを知らなくても通じるだろうという信頼で使った。一方でポケモンを知っていれば、ゲームめいたフィクション性をこの句に読んでもらえるはずだとの期待もある。ただ俳句を読む人はポケモン世代ではない人が多いので、ちょっとおこがましかったかもしれない。
冥府を下って
いま解題している句のなかでは最も新しいもの。お声がけいただき「ゲームをうたう」というWEB連載の企画に投稿させていただいた。この「冥府下り〈カタバシス〉」は、「邪聖剣ネクロマンサー」というゴシックホラーRPBをもとにした連作だ。直接的になりすぎないようストーリーや固有名詞からは距離をとって、その雰囲気を作品に落とし込んでいる。
「花冷」は桜の季節に寒くなること(伝統的にただ「花」といえば桜を指す)。この位置におく語として「花曇」も考えていて最後まで迷った。どちらにも桜の季節に関係ある語で、かつコンクリートのような硬質さをもっている。「花冷」を選んだのは「曇」よりも冷徹さ、そっけなさが強調されるからだ。
「花す」は造語。放す・花にする・話しかける、という三重の読み方を可能にする言葉。そのどれもが「愚者〈アルルカン〉」の悲喜劇的滑稽を読ませる。
「不在を放す」を読めば、「花冷」の空間に「不在」=ないものをわたすという喜劇役者=「愚者」を、「不在を花とする」と読めば、「花冷」のソリッドな空間の花とは「不在」である宣う「愚者」を、「不在に話しかける」と読めば、無駄だと知りながら空虚へと語りかける「愚者」を、それぞれ読み取ることができる。
意味を多重にするならひらがなの「はなす」でもいいはずだが、そうではなく「花す」としたのは理由がある。まず「花冷」は花のイメージがかなり強い言葉で、さらに十七音というごくごく短い文において、繰り返される言葉はものすごく強調される。つまり「花冷」に「花」を重ねるのは、やりすぎの印象を与える。やりすぎで、だからしらじらしい。この虚しさがむしろ「愚者〈アルルカン〉」の質感を支えてくれる。そう考えてあえてくどいくらい「花」を重ねた。
泣きながら笑うピエロの滑稽な痛々しさを、風景と文法の両方からのアプローチで表現している句だ。
短歌、田中摩美々のために
短歌も作っているので一つだけ紹介する。
「アイドルマスターシャイニーカラーズ」というゲームについての同人誌に寄稿した作品。そして田中摩美々という女の子に捧げた作品だ。
これはこだわりなので言わせてほしいのだが、ぼくは田中摩美々の二次創作を短歌でやろうとしたのではない。田中摩美々という存在が、短歌によって表現されるポエジーと同じだと言いたくて、それを証明できる作品を作ったのだ。
同人誌の組版のときに、編集長には「細いゴシック」で組んでほしいとお願いした。それは、細いゴシック体のもっている、無骨だけれども強くない感じ、人と触れ合うけれど自分一人のことで精一杯なよわさ、裏でも表でもない、青でも赤でもない、掴みどころのなさを表現したくて、そうお願いした(実際とてもすてきなものになっている)。
もちろん摩美々は、そういうコケティッシュな面もあるというだけで、アンティーカや他のユニットの友人たちとすてきな関係を築いている。ただ、彼女がぼく(プロデューサー)にみせるのは、いたずらして自分を見てほしいと主張し、しかし摩美々をまっすぐみると逃げていってしまう天邪鬼な姿なのだ。
すみません、詩の話かと思ったら摩美々の話でした。(←コウメ太夫?)
さて、この歌は連作の一首めにおいたもので、それにふさわしく要素のほとんどが「田中摩美々」だ。
音韻上のことを言えば、「変わりみ」「身代わり」「姿見」「翡翠」、三十一音のなかでM音のゆるい韻が四回も登場する。この一首を口にだしてみると、遠くで摩美々(MMM)が響く。摩美々そのものではないけれど、ここではないけれど、どこかに摩美々がいるであろうという確信が生まれてくる。
アルドラさんが「女の子の名前って一番短い詩だろ」とツイートで言っていたが、まったくその通り。「摩美々」と呼ぶだけで、それは呼び損なわれて、彼女の痕跡を確かめるような詩ができてしまう。
読まれているものはといえば、まず「変わりみと身代わり」。これは単純で、摩美々のはじめに思いつく特徴といえば、AといえばB、BといえばAというという天邪鬼さだから「変わりみ」。そして同時に、本心を言葉の裏側でしか教えない、あるいは何かを盾にしてその裏側でしか言わないから「身代わり」。
「、」はその前後で視点が少し変わっていることを意味している。前半はある意味一般的な摩美々像。後半は摩美々の内的な視点。
「昏い姿見」で摩美々が見ているのは摩美々自身。つまり「変わりみと身代わり」という他人との関わり方が、すべて摩美々自身のために行われていることを示唆している(鏡のモチーフによって「変わりみ」と「身代わり」が同じ目的をもった行為の鏡像だったことも示唆さてれいる)。
しかし、この摩美々だけを映すはずだった鏡の「端」に「翡翠」が入り込んでくる。彼女だけの世界に紛れこんで、「遠のく」のがわかるくらいのあいだ目を奪った「わたしの翡翠」。これは天邪鬼によってうやむやにしてしまった摩美々の心とも読めるし、逆に摩美々の天邪鬼をひきだすどうしようもなく惹かれてしまうなにかのこととも読める。はじめの一首なので、これからの広がりを予知させるような余白というか、助情性を残した。
このあと「摩美々という女の子の名前」が展開されるのだが、ほんとにいいものになっているのでどうにかしてみなさんに読んでいただきたい。ぼくの作品以外にも『SHINOGRAPHIA』は玉稿ぞろいです!!
おわりに
以上、自分で作った詩を自分で解説してみた。作者の意図がわかれば、少しは詩にとっかかりをもってもらえると思ってこの文章を書いたので、みなさんにとってそうなっていればこの上ない喜びだ。この後にぼくの作品を読んでもらえたら嬉しいし、他の人の作品を読んでもらうのも嬉しい。大きめの書店で、いままで素通りしていた「俳句・短歌」の棚に留まって、ピンときた一冊をめくってもらえたら、面目躍如。
ぼくはこれからも詩作を続けるので思い出したら見てみてほしい。
※2025/12/1開催の文フリ東京で櫻井天上火の作品が読めるのはここ
・[と-18]『ビニール袋』
・[G-30]『近代体操』
※櫻井天上火が編集部を務める同人誌はこれ
・ぬかるみ派 第3号では俳句に早舩煙雨さん、短歌に丸田洋渡さんを迎え、詩歌が充実している
おしまい