「私たちがどう生きるか」が問われている
「感染しないこと」を目標にするのを、もう終わりにしよう。
感染することは、何も悪いことではない。
必要なのは、誰もが感染する可能性があることを受け容れ、感染しても誰からも差別を受けることのない社会をつくることではないだろうか。
ほとんどの人が治っている事実の方に目を向けよう。
正直、いつまでやるの?って思うし
この先の見えない対策の終着点が
薬やワクチンなのであれば
それを私は望んでいないから、自分にとっては解決策にはならないし、大切な人たちにもその選択はしてほしくないと考える。
(選択の自由はもちろんある。でも、今の社会では一方向の情報しか入ってこない可能性があるため、「選択肢すら与えられない」ということを非常に危惧している。)
だから私は私の生き方として、周りの人に伝えるという選択を取っている。
薬は症状を取り除く対処療法でしかない。
自身の免疫力で治せるものを安易に薬に頼ってしまったら、免疫はどんどん弱くなっていってしまう。
薬に安易に頼ることは、薬への依存を生む。
どうしても、しんどいときには、リスクがあることも踏まえた上で、選択をする。
自分の身体が何か症状を訴えたとき、
「今のままの生活を続けたら危ないよ」っていうサインを、身体はきちんと出してくれているのだ。
ワクチンに効果があるかどうかもわからない。
そして副反応の可能性が否定できないのであれば打ちたくない。
余計な化学物質を体内に入れたくない。
自らすすんで死んだ病原体を体内に入れるよりも、
自然に生活して感染した方が良いと考える。
薬やワクチンがない現時点でさえ、ほとんどの人が無症状であったり治っているのに、
どうして薬やワクチンが無いと終わらないの?
そして薬や治療法がある病気であっても、
治療の結果治る人もいるかもしれないが、
辛い思いをして治療を重ねても、治らずに亡くなっていった人を、誰でも見たことがあるはずだ。
結局最後は自分の体力と精神力の問題ではないか。
だから、自分で終わらせる。
周りが変わるのを待つのではなく。
もし、あなたが「いったいいつまで続くんだろう…」って思っているのなら。
自分次第で、いつでもやめることができる。
私たちは、我慢することに慣れさせられている。
いろんなことを、「しょうがない」と諦めることに慣れすぎている。
何かから、強制されているのでしょうか?
私たちが気にしているのは同調圧力であり、
世間の目ではないでしょうか。
万が一、もし何かから、強制されているのなら(強制は人権侵害に値すると考えますが)、
プライベートな時間だけでも、変えることができるはず。
テレビでの報道が少なくなった途端、
「あれ、怖くないかも…」って感じた方、いませんか??
誰かが、「もうマスクを外していいですよ」って言ってくれるのを待ちますか?
それとも、マスクをしていない人の方が多数派になるまで待ちますか?
周りの人からどう思われるかということよりも、
「自分がどう生きたいか?」を大切にするということ。
他人の評価軸ではなく、自分の軸をもつ。
ウイルスがいることは自然の摂理だ。
人が死ぬことも、自然の摂理。
「健康な人がマスクをして日常生活を送る」などということは、自然の摂理ではない。
ましてや子どもたちがマスクをしている(付けさせられている)のを見ると、本当に胸が痛む。
頭で考えることも必要だけど、自分の心の声に耳を傾けたら、もう答えは出ているのでは?
もし、感染者が出てしまったら、「責任が取れないから」という。
そんなに責任責任っていうんだったら、
マスクを常につけることによって健康を害する責任、
熱中症になって倒れたときの責任、
除菌をして常在菌まで殺して菌に対する耐性がつかなくなることへの責任
を取ってくれるのですか?
誰も責任は取ってくれないのです。
自分が万が一感染したとしても、
「何かのせい」「誰かのせい」にはしない。
だって、その行動をすることを決めたのは、その人に会うことを決めたのは、他でもない「自分自身」だから。
感染しないために、生きているのではないのだから…。
もし、私が高齢者や持病を抱えている立場であったとして、
例えリスクがあったとしても、家族や会いたい人にも会えない社会は嫌だなと思う。
(実際に、自分がその立場に立たないと、「こわい」という気持ちはわからないことかもしれないけれど、例えそれで寿命が少し伸びたとしても、大切な人に会えない日常が豊かだと言えるかどうかということについて、疑問に思うからだ。)
(このことは、実体験も踏まえて書くべきか迷ったが(その方が、伝わると思うけど)、また機会があれば書くことにする。)
「どんな風に死にたいか?」を考えることは、
「どんな風に生きたいか?」を考えることだ。
だから自分自身の生活を見直す。
生活習慣病や、免疫力の低下により病気になる一番の根本的な原因はそこにあるから。
社会が変わってくれること、
周りの人が変わってくれることを期待するよりも、
自分が変わらなければ、何も変わらない。
対処療法的思考に陥ると、問題の本質を見誤る。
そもそもの原因に向き合わなければ、根本的な解決は有り得ないし、同じことを繰り返す。
防災も同じ。
地球環境問題に向き合わずに、自然災害が起こる前提で対策ばかり打っていても、同様の被害が繰り返されている。
ウイルスや、自然を、人間がコントロールできるという傲慢さから来ているように思う。
私たちは世界中の人と助け合う前提で生活している。
どこで作られたのか、誰に作ってもらったのかわからないものを、毎日口にして生きている。
それは自分にとっては見ず知らずの「作ってくれた人」を信用していなければできないことだ。
私たち一人ひとりが、この広大な世界の仕組みの中の一つの役割を担っており、生産(供給)と消費を行いながら生活している。
「人との関わりを絶って生活する」、などということは、この社会の中で生きていく限り不可能に近い。
山奥に篭って自給生活をするか
それこそ無人島での生活をしなければならなくなる。
(それも、生きていけるとしたら安全な場所が確保され、自然の恵みがあってこそである。)
それもこの法治国家である日本で、許されるのかどうかということもわからない。
国民の大多数がそれを望むのであれば、
その流れに沿っていかざるを得ないのかもしれない。
それが同じ時代を生きる者の宿命なのかもしれない。
ただ、自分にとって、「なんだかおかしな方向に進んでいる」と思いながら、それを黙って見てその流れに乗ってしまうことを、自分が望まないだけである。
人は本当に一人でも生きていくことができるのか?
でも、やっぱり。
人と人とが交わることで、
1と1が2だけじゃない、
何倍ものパワーになることを知っているから。
自分一人だけじゃ得られない、人と触れ合うことによって得られる喜びを知っているから。
「本当に大切なものって何?」って、
私たちに、教えてくれているような気がするのだ。
今こそ、私たちがどう生きるかが問われている。
何をするのも、どう考えるのも、自分次第。
私は、この「導きの星」に出逢えたことを、大変感謝しているのだ。