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鶏口となるも牛後となるなかれ③~なぜクリムトは「分離派」を結成したのか
③グスタフ・クリムト(1862~1918)
クリムトにとって、最も大きな人生の転機は、1897年、35歳の時、「分離派」を結成した時だろう。実際、クリムトという名前からイメージされる作品はほとんどがこの「分離派」結成後に制作されている。
まさにクリムトが、「クリムト」になった時とも言い換えられようか。
だが、「分離派」というどこか変わった名前は、一体どこから来たのか。なぜ、わざわざそんなグループを結成したのか。
その答えは一つ、「権威的存在であるクンストラーハウスのフィールドでは、自分のやりたいことができないから」。
クリムト、<医学>(焼失)、1899~1907年
その事をまざまざと思い知ったのが、1896年、分離派結成の前年に、ウィーン大学の天井画のために提出した下絵(↑)が、批判の的になった事件だっただろう。
1890年代当時、ウィーン画壇を牛耳っていたのは「クンストラーハウス」という組織だった。彼らは、伝統的な技法を重視し、前衛的な試みを嫌っただけではない。「自国の美術を守るため」と称して、自らが主宰する外国の画家の参加を許さなかった。
フランスでは印象派や、ポスト印象派の画家たちがそれぞれの道を追求し、新たな流れが色々と生まれていたのにも関わらず、それを無視していた。
一種の「鎖国」と言うべきか、「井の中の蛙」を是としていたと言うべきか。
そのような姿勢に疑問を呈したのは、クリムトだけではない。他にも建築やデザインの分野でもいた。
そして、「印象派」の画家たちが、サロンの審査制に反発して、自らの手で自由な展覧会を開催しようとしたように、クリムト達若手芸術家も、自由な作品の展示ができる場所、そして外からの風に触れられる場所を得るべく、グループを結成、クンストラーハウスからは脱退した。
翌年には、彼らの「城」と言うべき「分離派館」が閑静。「黄金のキャベツ」とも揶揄された、シンプルな建物を舞台に、彼らは気炎を上げる。
「時代にはその時代の芸術を 芸術には自由を」
ルネサンスなどの数百年前の古いスタイルを蒸し返し続けるのではなく、今の時代にふさわしい、新しいスタイルを。
19世紀とは、権威や伝統に縛られない「新たな芸術」を芸術家たちが独自に求め、自らフィールドを作った時代だったと言えよう。
彼らの作品は、しばしば反発や嘲笑の対象になった。
クリムト、<ヌーダ・ヴェリタス>、1899年
だが、それは覚悟の上だったはずだ。
この<ヌーダ・ヴェリタス>(1899年)の上部には、次のようなシラーの言葉が引用されている。
「もし、あなたの行いと芸術で数多くの人びとを満足させることができないならば、少数者を満足させるために行為と芸術を行え。多数の人が喜ぶことは悪いことなのだ。」
マジョリティに媚びたりはしない。迎合はしない。
さもなくば、自分ならではの道を進むことはできない。
その覚悟と、歩き続ける精神力、信念とがなければ、きっと歴史に名前を刻むことは難しかっただろう。
また、批判を浴びても「かまわない」と笑って、あるいはそれに耐えきって進もうと思える道、それを人生の中で見出せること、出会えることは、それだけでも羨ましい。