立ちはだかる壁に対して、何をする?~広重の場合
緊急事態宣言に伴い、美術館や博物館の多くが休館になった。
今日から開催されるはずの、「北斎と広重」展も、明日からは見られない。
何でこんなことに……。
(ちなみに私のいる図書館は、期間中のイベントは全て中止だが、他は通常通り……正直イラッと来るが、その苛立ちを書く方に向けていきたい)
北斎の「富嶽三十六景」を中心に据えながらも、同時代に生きた後輩絵師・広重の視点から展覧会の流れを組み立てていく、その流れは面白かった。(正直、私好みだった)
会場を後にした時、広重について書きたくて書きたくてたまらなくなっていた。
何かの道を進もうとすれば、必ずどこかで壁にぶつかる。
それは偉大な先人や先輩だったりもすれば、ライバルというのもありうるだろう。
どうしても敵わない、自分にはないものを持っている、レベルが違いすぎる、とも言える相手を見つけた時、人はどうするのだろう?
昔、中学生くらいの時だっただろうか。
「絵による伝言ゲーム」を、クラス内の班ごとに分かれてやったことがあった。
その時のお題は、「馬」。
そして、最後に「伝言」を受け取り、黒板に「答え」を描く役は、私になった。
「馬ねえ…」
正直、適当で良いか、と思い、描いたのは、お盆の時に作る「胡瓜の馬」に毛が生えたような代物だった。
絵がヘタクソなのは自覚していたので、鬣や尻尾など「馬」らしいポイントはちゃんと描いたので、「まいっか」とチョークを置き、ふと横を見た瞬間、絶句した。
彼女が使っているのは、私が使ったのと同じ白いチョークのはずだった。
なのに、すっ、すっ、と流れるように引かれた線は、みるみるうちに馬の長く、そして逞しい首や、鼻づら、そして鬣を構成していった。
私の描いた「落書き」とは比べ物にならない、リアルな馬の横顔がそこに生まれていた。
黒板にチョーク、と条件は同じはずなのに…。
以来、私は「絵」は諦めた。
それでも、その後、「美術史」に進んだのは、「上手な絵を描く人」への漠然とした憧れが残っていたからかもしれない。
なぜ、この人たちはこんな風に上手に描けるのだろう、と。
この人たちは、なぜ絵の道に進んだのだろう。
何を思ってこの絵を描いたのだろう、と。
彼らの内面に触れたかった。
そして、「自分では描かないの?」と聞かれるたびに、あのチョークで描かれた馬を思い出し、古傷が疼くのを感じている。
大きな壁を前にした時、人の反応は大きく分けて二つではないだろうか。
何としても越えてやる、と思うか、それともただただ圧倒されて言葉を失うか。
私は、クラスメイト(今では美術教師になっているらしい)の馬を見て、心が折れた揚句、絵に対する思いを、妙な具合にこじらせて、ここまで来てしまった。
「越える」こと、「追いかける」ことは端から考えもしなかった。
対して、広重は、折れなかった。
「名所絵」に挑戦するとき、何をどんな風に描いたところで、先輩・北斎と比べられることは想定済みだったはずだ。
そして、「瞬間」や「奇抜な構図」で人の心を捉える北斎に対し、「詩情」でもって人を惹きつける画風を作り上げた。
彼の描く雨や、降り積もる雪はじっと見つめていたくなる。
その後も「名所絵」を手掛けながらも、北斎の存在は常に彼の中に存在していた。
しかし、彼は「北斎」に対する執着に呑まれることも、その存在の大きさに潰されることもなかった。
彼の中にあったのは、子供の頃と同じ「絵が上手くなりたい」という思いだったのだろう。
「絵が上手くなりたい」
「(自分の)絵を描きたい」
そして、描くのは、誰かの真似や、「亜流」とは言われない、自分の、「広重の絵」。
北斎という壁に相対しながら、考えていたのは、「自分の絵」だっただろう。
この「自分の絵」、という軸を自分の中に持っていたことが、彼の強みではないだろうか?
そして、その軸があったからこそ、努力を重ね、「瞬間」や「奇抜な構図」で魅せる北斎とは異なる、しっとりとした「詩情」を感じさせる、独自の世界を切り拓いていくことができた、と言えよう。
そう考えると、壁は直接乗り越えるだけのものではないのかもしれない。
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