船で国境を越え、ミラノ風カツレツを冬のウルグアイで食べる
ウルグアイに行った。
「ウルグアイに行ったことあるよ」と言いたかったから。
言う権利を有するために行った。ためだけに。特に何か目的があるでもなく、人生というスタンプラリーにおける、珍しめのスタンプを集めるため。それが人生で旅。
不純な動機を胸に、ブエノスアイレスからフェリーで1時間と少し。
ウルグアイの小さな港町、コロニア・デル・サクラメントに降り立った。
アルゼンチンの港の対岸にある、他国である。
思えば、船で国境を越えたのは初めてではないか。
港にもイミグレーションがあり、さながら小さな飛行場の様になっている。
日本は四方八方を海に囲まれており、ある意味全ての国境は海を越えねばならぬのだが、このように船でふらりとたどり着く異国はなく、異色の経験。(いつか福岡から釜山へ行きたい)船とはいえ、出発の2時間は前に港に着き、準備万全にしなければならず、所要時間は滞在時間よりも長い。気軽とは言い難い部分もある。ふらり発言は一旦撤回。
儀式のようなゆるい荷物検査と、長蛇の行列の出国審査を受け、どこの国でもない船上へ。
船の中には免税店が入っていた。とりあえず作ってるキオスクくらいのものかと思いきや、船が出るやいなや、店の中はごった返す。アルゼンチン人なのか、ウルグアイ人なのか、まだ見分けがつかないが、おそらく前者が酒や化粧品を爆買いしている。
調べてみるとアルゼンチの、消費税にあたるIVA (付加価値税) は、21%だという。
確かに、爆買いしたくなる気持ちがわかるな。消費税は10%でも辛い。いわんや倍。
全てが物珍しくウロウロしていると、あっという間に対岸に着いた。
ブエノスアイレスの港では、入国と同時に出国の審査も完了しているため、再び儀式の荷物検査だけを行い、街にでることができた。
空港と違って、港は街から近い。港が起点となり街が出来上がっているから。港とはでかい駅だから。だからUberがなくても、なんとか徒歩で楽しむことができた。街は小さく、泊まるほどではないのだが、快晴でとても美しく、佇むだけでQOLは上がる。
少し歩くと、ハンドメイドマーケットや海沿いの公園広場など、いかにも観光地っぽいものが現れ初めた。
横浜の赤レンガ倉庫、神戸のハーバーランドにも少し似ているが、せっかく地球の反対側にいるため日本のことは想起しないようにしよう。考えるのをやめ、ただ感じるのだ。
ここは「何も無い」場所で「何もしない」を楽しむ場所。
いわゆる「チルする場所」である。
文明から隔離されるためにお金を払う、デジタルデトックス合宿があるように、「何もしない」は今や贅沢品だ。いつも追い立てられ、焦り働きアリのように一生を終えそうになる私達。こうしてお金と時間を費やしはるばる知らない街まで行くことで、何もしないをすることができる。
脳内に、Googlemapの青い丸の位置を思い浮かべ、ここまで来たんだ…といまここを感じた。いい。非常にいいね。
かといって、「何もしない」ために地球の反対側まで来るのはやりすぎよな…などと雑念のシューティングスターを胸へ去来させつつ、地に自分を溶かしていく。疲れと寒さもあり、これ以上の邪念を考える余地がないため、ただ生きるだけの生物に成り下がる。いやもしくは、成り上がることができるのだ。
次に我々は、いかにも海沿いのいい場所にあるいかにもレストランに入った。横浜の馬車道や、天王洲アイルにもありそうな店。嗚呼、また邪念が襲うが、それらと違うのは周りにアジア人が一切いないこと。
異国料理に疲労も重なっており、写真が目についたミラノ風カツレツを頼んだ。見慣れたカツレツ。
この料理は、日本の料理でもないし、アルゼンチン料理でもウルグアイ料理でもない。加えてここはミラノではないし、このカツレツはおそらくウィーン名物のシュニッツェルだ。ウルグアイ料理ってなんなんだ。もうバグっている。脳が場所を捉えきれていない。脳を抑えて胃が叫んでいる。だが食べたい。
届いたカツレツはあまりにも大きく、イエティの手ほどある。分厚い。
シュニッツェルはもっと薄く伸ばすやつだ。スルメくらいに伸ばさないなら、ただのとんかつではないか。
巨大チーズかけトンカツを、イエティを見たこともない私がウルグアイで食べる。世界遺産の街で、どこにもニーズのない珍百景。
前置きをここまで引き伸ばして食べたミラノ風カツレツは美味しかった。美味しすぎた。知っている味がした。異国じゃなくて、日本でも食べられる味。長旅でやっと出会えた。とどのつまり、異国で食べなくてもいい味と言ってしまえばそれまでなのだが、現状において日本の味を恋しがる私には染みた。
肉なのに、赤ワイン文化圏なのに、うっかり白ワインを合わせ、舌鼓を打つ。いい音色だ。見える景色がほぼ天王洲アイルでも構わない。
冷静にメニューを見直し円換算したら、イエティは4千円ほどしたのだが、もういいだろう。ボトルワインとカツレツが同じ値段だ。ウルグアイの相場感および世界観がよくわからない。ノーイメージだ。あとで調べると、ウルグアイは南米一物価が高いらしい。嘘だろう。ノーマークすぎる。そこは知名度と比例させて中の下の物価であれよ。
2人前ほどある巨大カツレツをシェアしても一人前。腹にぶち込むと腹パンになったのだが、隣の美男美女カップルは、それぞれに1カツレツずつ、2カツレツを食べていた。胃の強靭さが違う。せめて違うものを頼んでシェアしないのか。皆背が高くガタイがいいから、この程度ペロリなのだろうか。胃の強靭さは国土の強靭さにも比例しそうだ。
いかんいかん、カツレツに囚われて長時間天王洲アイルしている場合ではない。デイトリップのカウントダウンが迫る。何もしないができたのは20分ほど。結局は再び追い立てられるように街を歩くのだ。
ひまわりの種入りのクッキーを買って食べたり、センスのいい雑貨屋さんでウルグアイクラフトビールを買ったり、ベタなお土産屋さんで、ウルグアイ国旗のキーホルダーを買おうか悩んでやめたりする。そんなよくある観光をして、いそいそと船に戻ろう。たった3時間の旅。だけど、ここで「ウルグアイに行ったことある」と「何もしない」を得た。
ああ。振り返っても思い出すのはカツレツ。カツレツが美味しかった。無になれたからなのか、その分あいつが忘れられない。長い長い旅で、結構思い出に残る一皿となったミラノ風カツレツ。
いや、シュニッツェル。ウィーンで初めて食べたときは痛く感動した。ここでも一人では大きすぎるカツレツ。後半は惰性になるが、一口目のときめきは忘れがたい、
ウィーンでは、トランジットの合間にすら街中に戻り必死に食べた。肘から上全体みたいな巨大なビールと共に。ミラノにいったときは食べたっけ。多分食べてないしし、ミラノにこのメニューがあるのかもわからない。ナポリにないナポリタン。
世界は食で開かれていて、一皿で何カ国も思い出すことができる。これは日本人の特性かもしれないが、旅は食。大人の旅は食がメインイベントである。だから一食にかける思いは強い。日本人の食への執念を舐めないで欲しい。あのビジュのウニを生で食べようと思い立つんだから。
そう思うと、日本で慣れ親しんだカツレツの味を、ウルグアイで味わうのも悪くない。思い出す情景が増えるから。数万と数十時間と体力を注ぎ込んで、遠い遠い異国の地で食べた、馴染みのあいつ。また出会えるから、またきっとこの日を思い出すことができる。
南米旅シリーズ