「国際教育フェア」に参加してみて思ったこと 〜子どもはどこに?教育の当事者は誰?〜
「国際教育フェア」に行ってきました
もう2週間も前のことになってしまいましたが、インターナショナルスクールタイムズと朝日放送グループホールディングスが主催する「国際教育フェア」に行ってきました。
昨年はアメリカに暮らしていたので、いくつかの説明会をオンラインで聴き、非常に面白いなと思っていたので、今年は会場に足を運んでみました。
とは言っても、我が家の子どもたちは、娘はすでに海外大学進学先が決まっていてまもなく家を出ていくところ、息子は、親子共に満足している中等教育学校の4年生(高校1年)で、次の進学先選びは大学となり、これは本人に任せる予定です。
ですから、自分の子どもたちに関して何か情報を得ようとことではなく(ちなみに息子の中高はこの国際教育フェアに出展していて、大人気で常に来場者が並んでいました。先生方、お疲れさまです!)。
OEC(プライベートオンラインの英語コンサルレッスン)の生徒さんたちが、小学校低学年から高校生まで(コンサルティングレッスンだと、実は幼児さんから社会人まで)さまざまな年齢なので、彼らのためになにか有用な新しい情報が得られるかな、という思いと、たくさんの人が注目して関心度が上がっている、日本の国際教育・英語教育の状況が肌でわかるかな、という気持ちで行ってみました。
会場につくと、来場者(と出展者も)の人数と熱気にびっくりしました!
本当に、「国際教育・英語教育」はいま注目されているのですね。。
それから、事前に見て気になっていた二つのトークショーに参加してみました。
一つ目は、こちら。
二つ目のトークショーはこちら。
どちらも、いろいろな方のインサイトが聴けてとても面白かったです。
ですが、、私にとってとても新しい情報や考えは、あまりキャッチできませんでした。
・帰国子女として子どもが日本の公立小に入った経験
・そこで学級崩壊が起きていて驚いたり
・日本と外国の授業や教育の違いについて思うこと
・発達の特性がある子どもたちへの対応について
・帰国して日本語があまりわからないところから吸収していく過程
・外国籍のお子さん公立小に増えている現状
・オンラインスクールに移ることで子どもが自由になる時間が増えて課外活動などもできること
・海外大進学出願にまつわるAPやIBについての細かいこと・・
ほかにもお話はあちこちに及びましたが、今回お話に出たほとんどのことは、我が子たちの経験を通して、私もすでに経験したり感じたりしてきたことだったからかもしれません。
スピーカーの方々のお子さま方は、だいたい幼児さんから小学生のようでした。10歳くらいまでと、中学終わりくらいからの思春期からの子育てでは、大きく、ガラッといろいろ変わるものなので、、その辺りを経験している登壇者もいたらまた議論に新たな視点が生まれたかもしれないな、とも思いました。
それでももちろん、登壇者の方々のお話は興味深かったですし、印象に残った部分もいくつもありました。
介護と教育にかける予算の差
LITALICOの(CTIS)の佐藤さんがおっしゃていた、老人向けサービスは1対1でひとりにつき30−40万もかけているのに、公立小で1対40のサービスでお金をあまりにもかけていないことは本当におかしい、ということ。
先生が、発達特性のある子も含め一人でこんな人数を見ることは不可能だと強く訴えていましたが、以前からこう行った声はあるものの、本当に、本当にそうだなと、うんうん頷きました。やはり、介護サービスと教育サービスの両方を手掛けていらっしゃるからこそ、強く感じていらっしゃることで、問題点がくっきりと見えるのだなと思いました。
もっとこの部分、世の中に問題提起して、おかしなバランスを本気で是正していくべきですよね。
しかしそれは政治の話で、有権者に老人が多い今、どうしても彼ら寄りの主張をする人が選ばれる構図になってしまうので、そうなると、一票の重さを変える(若者は三票分など)ことなどがまず必要で、ここを変えるのがまた難しく・・・・と、なかなか進みそうもありません。どうしたらよいのでしょう。
日本の教育を世界へ輸出
そして、同じく佐藤さんがおっしゃっていた、「日本の教育を世界へ」という点も、これももっと本気で実践していくとよいのではないかと思いました。
日本が欧米の教育に見習うべき点があるのは間違いないと思いますし、日本の学校現場に人権意識が足りないことを変え、主体性を持って学べる場に学校をアップデートする必要があると思います。
でも、実際にアメリカのK-12を見てきた身(2回のアメリカ駐在で2人の子どもを通して、KからG8の公立の小学校と中学校、G9-12のオンラインハイスクールの実態を見てきました)としては、日本の教育の良い点もやはり認めるべきだと感じます。自信を持って輸出していけば、わりと世界で流行るかもしれません(ある程度のドリル学習や、給食や掃除の時間など)。
自由時間のない子どもたち
そして、アイシャさんがおっしゃっていた、子どもの生活が忙しすぎる、自由時間がないというお話。だからフルタイムでオンライン教育のCGAに変えようか真剣に検討しているとお話しされていたこと。
我が家の子どもたちは、まさにアイシャさんのお子さんと同じ頃(小学校低学年から中学年)、2人とも口を揃えて、「学校は長すぎる、忙しい、ホームスクールにしようよ、あるいは学校が半日くらいならいいのに」と言っていました。状況は変わっていないんだなあ、、と、昔を思い返して聞いていました。
ただ、今となって思うのは、当時、Crimson Global Academyのようなものがあって選べたとしたら選んでいたのか。。それが正解だったのか。。それはわからないと思ってしまいます。
不自由だったり無駄があったり、、そういったことは基本的には改善すべきと思うのですが、でも、果たして小学生が、今夢中になっていること(ダンスでもバレエでも野球でもプログラミングでも)にもっと時間をかけて、学校を効率的に短く、あるいはオンラインで自宅で済ませてしまう、、ということがよいことなのか。。
いろいろなことを経験し、通り抜けてきたいま感じることなのですが、無駄があっても、周りと同じペースで歩んでいくことも、やはり重要な気もします。
「娘がオンラインハイスクールを卒業した話」でも書いた通り、アメリカには、小学生の時からずっと、オンラインスクールやホームスクールでマナでいる子どもがいます。我が家がそのようにすることが可能ならしたのか、、と考えると、やはり、その道は選ばなかったような気がします。
高校生あたりから、遠征やコンクールなどが忙しくオンラインに切り替える、ということには特段抵抗がないのですが・・・。
そして、NPO法人翔和学園のギフテッド・アカデミッククラスの失敗のお話も記憶に新しく、好きなことを追求することと、皆と一緒に育っていくことについて、考えるべきところがあると感じます。
しかし、今の子どもたちの暮らしが忙しすぎること、それがヘルシーでないことは、誰の目にも明らかです。
昔の子どもたちは、もう少し時間や余白がありました。
あまりにも目まぐるしい小中学生の生活がコロナで強制的にストップして、その後、世界的に、不登校が激増しました。
学校生活の回し方、子どもたちの多忙さ、やはりどこかに問題があるのですよね。
「学校に行かない子にはフリースクールや通信制高校を整えよう」ではなく、学校自体の在り方を変えていかなくては、我慢をする子が増えるばかりです。早急に、学校をアップデートしなくては・・・それは、教育者や日本政府も含め、皆の共通認識なのだと思うのですが、「では、どうやって?どのように?」という答えが誰もわからないのが今の状況だと思います。
欧米をお手本に、とよく言われますが、アメリカの教育にも問題はたくさんあります。真似れば良いということでは全くないと思います。
例えば、「世界的には不登校という概念はほんとんどない、日本と韓国くらいだ」などとはよく言われますが、それは現地の実態をよく知らない方の発言のように感じます。
アメリカには、不登校がいません。それは、不登校という状態が許されないから、に尽きます。学校を休みがちになったりいけなくなると、即ドロップアウトとなります。ホームスクーリングが多くて素晴らしい、のではなく、仕方なくホームスクールという形態になることも多いのです。オランダでも同じということをnoteの投稿で見ましたが、アメリカでも、子どもが学校に行かないと、「行かないと親が逮捕されます」と伝えられます。子どもには学校に毎朝通い続けるしか選択肢がないのです。それができない場合には、籍を抜いてオンラインスクールやホームスクールに切り替えるしかなく、それが、いわば中途半端な「不登校」がいない理由なのです。
私が、今回この国際教育フェアに参加し、二つのトークイベントで、登壇者の方々の熱のこもったトークをお聴きし、そして、大盛況の一条校やインターナショナルスクールのブースを見て、本当に、ものすごく、様々な立場の方がこれからの日本の教育のことを考えていて、そして来場者の熱も、すごい!と驚き素晴らしいなと思ったのですが。
実は、どこかに、なんとも言えない違和感が残りました。
こちらが、今回の記事に書きたかったことです。
何か納得しきれない引っかかるものがある。。
帰宅後、その違和感をよくよく考えてみました。
そして、わかりました。
教育の当事者は子どもなのに、子どもがいない
学校に通うのは子どもです。ですが、トークイベントでも、学校のブースに並んで熱心に話を聞いてメモをとっていたのも、ほぼすべて、保護者や教育関係者、つまり大人だったのです。
会場には子ども連れの方も多かったのですが、ほとんどが幼児から小学校低学年の子どもで、「親の用事に付き合ってきている」様子でした。中高生に見られるお子さんは、数人見かけました。
教育の当事者は、子どもです。
大人は最終的に子どもの教育の結果の責任を負えないのです。ならば子供にもっと選び取る権利を持たせるべきではないか?
その部分がとても引っかかったのでした。
大人たちが、とても熱心に語り合って、これからの教育を、子どもの教育をどうしていこうか議論することももちろん大切なのですが、もっと、子どもを交えて語り合うべきではないでしょうか。
子どもの声を、意見を聞かなければ、結局、子どもたちは主体的になることはできないのではないのでないか、、その場で提供されるものの中からをいくつか選択するのみが、主体的なことだとは思えません。
大きな話になってしまいますが、「教育」とはなんでしょう?
教えるもの、与えるものなのでしょうか。
この会場では、親が選択して「子どもに与えるもの」と感じました。
教育とは、知能やスキルを与えること、場合によっては都合の良い状態に導いていくことで、それは教え与えることかもしれません。でも、一方で、教育とは、「子どもが生きていくために必要な力をつけること」ではないかと思います。主語は子どもで、能動的な動きなのではないでしょうか。
生きていく力・・・
インターネットが社会に浸透してからの社会は、それと共に育ってこなかった私たち大人には、正直どうなっていくのかよくわからないわけです。
だからこそ、ああだこうだと変えるべきことを考えて議論していたり、いろいろなタイプの学校を作っては、これがこれからの教育です!と訴えているのだと思います。
でも、実は、今の社会、これからの社会については、むしろ子どもの方が感じていてわかっている気がするのです。
ならばリードは子供に任せるべきでは?
それなのに、教育を考えていくこの場に、子どもが参加していない。連れてこられた幼い子どもたちは「託児」に預ける仕組みになっていること。。
小さな子どもでも、自分を意外とわかっています。
外でうんと遊ぶのが好きな子も、じっくり考えて動くのが好きな子もいて、英語が馴染みそうか、今は日本語のみで行きたいか、意見があると思います。
どんな学校も、子どものことを考え、さまざまなことを提供しているのは間違いありませんが、「国際教育・英語教育」の親御さんや学校の熱を見ると、ビジネス化が凄まじく進んでいるようにも感じてしまいます。
子どもを、子どもの気持ちを置いて行ってはならないと思うのです。
最近X(Twitter)で言われていた「英語と日本語のトレードオフ」という概念も、「算数と英語どちらを先にたくさん先取りさせるか」、などという議論も、なんだか、その先の人生を生きていくのはその子自身なのに、大人が熱を持ちすぎて、誘導しすぎていて、「それを決めるのは誰?」本当に大人が勝手に決めて良いの?と感じてしまいます。
「おうち英語是か否か」という記事でもそうっと書いたのですが、、教育は、最低限のみをすべての子供に提供し、あとは、都度、本人が選べるようにするべきではないのか。。そう思うのです。
私がこう考えるようになったのは、子どもたちがそう言っているからにほかなりません。
我が家の子どもたちは2人とも(17歳と16歳)英語を話すバイリンガルですが、「おうち英語についてどう思う?」と質問した際には、娘は「本人が好きなら、そして能力があるなら、いいと思う、とてもプラスになると思う」。息子は「そんなんやるもんじゃない、普通にアンパンマンみせてやれ」という答えでした(笑)。
まだ大人ではない、でもある程度育った子どもに意見を聞くと、非常に面白いです。まったく新しいパースペクティブを得られます。
つまり、私は、教育に関心のある同世代や大人同士の会話では、先に述べた通り特別新しいインサイトが得られないのですが、Z世代に訊くと、「なるほど」とか「そうなのか」ということがたくさん得られます。
ですから、こういった、これからの教育を考える「英語教育・国際教育」のイベントを行うならば、もっとたくさん、子どもたちに登場してもらい、一緒に考えてもらう方が有意義なのではないか、そう思いました。
教育に関心のある多くの方がご存知だと思うのですが、灰谷健次郎さんの『天の瞳』。
「最終話」まで読まれた方は、私がここで言わんとしていることをわかってくださるのではないかと思います。
15年も前の出版で、不良や非行少年と呼ばれる子どもたちがいた、ひと昔ふた昔も前の時代なのに、状況はあまり変わりません。
ー今後の教育をどうしていったらいいか
そこで、学校や保護者だけで話し合っているのはおかしくないか?子どもたちが当事者なのだから、子どもたちも一緒に考えていくべきなのではないか。
ストーリーがそう進む流れの中、灰谷さんは亡くなってしまい、この作品は未完のままとなりました。
あの後、倫太郎たちがどんなふうに学校や保護者とやりとりしていくか、どんな新たな展開や世界になっていくのか、とても楽しみにしていたののに、もう先を読むことはできません。
なんだか、敢えてそこで終わってしまったのかもしれない、ここから先はいつも、その現実を生きる大人たち子どもたちが、試行錯誤して切り開いていくべきなのかもしれない。そう感じています。
イベント参加の感想のはずが、アメリカの不登校やら最後は読書感想文になってしまいましたが🙈 これが、いま大人たちがとても熱くなっている「国際教育・英語教育」の最先端現場を見て考えたことでした。
「大人たちが」と言ってしまうのは、ある参加している国際教育系オンライングループでも、お母様たちの子どもの教育の熱は本当に高く、子どもの学校や留学や英語試験について、常に先取りしていろいろとリサーチし、子どもに提示するも、思春期も相まって「やだ」と言われる、、ということが多いと耳にすることもあります。
そしてこれは、白状しますが、まさに私自身のこれまでの(ある種現在進行形の)姿でもあるのです。
子どものことを、親が子どもよりも熱を持って先走って動き出すと、たいていうまくいきません。子どもは親が誘導するものには乗りたくないものですから(笑)。
そして、長年、親が良かれと思って与えてきたものが、実は子どもにはフィットしていないものの場合、子どもは限界まで溜め込んだ結果、動かず進まなくなることがあります。
親の言うことを聞かせるのではなく、子どもの言うことを聞いてあげることがいかに大切か、最近身に染みて感じているところです。
親が知識や信念を持っていると、どうしても子どもの声を十分に聞けなくなってしまいがちです。
そのやり方がチョイスが子どもにベストマッチしていれば、結果オーライかもしれませんが、実は子どもはさまざまで、親が気づいていない考えや気持ちがあり、必死でそれを伝えようとしているかもしれません。でも、何か「与えよう」と思っている親は、なかなかそれに気づくことができないのだと思います。自戒を込めて😌
今の私の考えもまたきっと、視野が狭く、後で考えると恥ずかしくなることが多いともうのですが、正解のない教育について考えていくのであれば、誰もがどんどん思うことを述べていくのがよいのかな、と思い、こちらに書いてみました。
ご意見いただけたら嬉しいです。