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寛容な世界 vs 協調する社会 (「小学校-それは小さな社会」「分身ロボットカフェ」「注文を間違える料理店」から思うこと)

2024年ももう終盤、あっという間に年末ですね。
みなさまいかがお過ごしでしょうか。

今年も、たくさんの方々のnoteをたくさん読ませていただいて、なるほどと勉強になったり、ふわっと心があたたかくなったり、noteは素敵な時間を過ごせる場所だなと改めて思いました。

そして私のnote投稿もたくさんの方が読んでくださって、スキを残してくれたり、お時間をかけてコメントを書いてくださったり、、ありがたい限りです🥹
noteの1年のまとめを見ると、なんと私は1年で15本しか投稿をしていなかったようです🙈 そんなスローペースにも関わらず、こんなにたくさんの方に読んでいただき、本当にありがとうございます!


書きたいことはたくさんあって、下書きには10本くらい書きかけの下書きもあるので、少しずつアップできたらと思っています。来年も読みにきてくださると嬉しいです!


先週、ある話題の映画を観てきました。
日本の小学校で、日本人は作られる、という、非常に興味深いトピックだったので、とても楽しみにしていました。

ドキュメンタリー映画としての素晴らしさや、子どもたちの描写以外の風景の切り取り方の美しさなども含めて、いい映画でした✨

内容は賛否があるのだろうと推測しますが、日本の小学校で育ち、子どもたちも主に日本の小学校を経験した私からすると、まずは懐かしさを覚えるものでした。
私自身でも、子どもたちを通しても、日本の小学校の融通の効かなさや画一的な部分にヤキモキしたり鬱々したりしてきたところはあるのですが、この映画を通してみると、まあいろいろあるけれども、overallやっぱりいいよね!と感じました。

海外で絶賛される日本人のクオリティは、やはりこの小学校時代に作られると言えるのかもしれないなと感じました。時間を守る、集団に協調する、頑張る、ゴミをちゃんと捨てる、など、日本人には当たり前と思われるクオリティは、海外では賞賛の的になるのですよね。震災のときの整然とした並び方や、コロナ禍ルールを徹底して守る姿など、このどちらの時期もアメリカに在住していた私としては、このときの日本の姿を海外メディアで見ていたので、彼らと同じ目を持って「日本人すごい✨」と感じていたことも事実です。やはりそのもととなるこの公教育は、世界に誇れる、素晴らしいものであるのだなと。

しかしながら、やはり、「映画の中では、今回は、うまく行ったからいいけれど、6年生の縄跳びも、1年生のシンバルも、もしそうじゃなかったら、どんなふうにこの経験が彼らの心の中に残るんだろう・・」など、考えてしまう部分もありました。


視聴後、数日して思うことは、「日本の小学校では、大人(先生)も子どもも、常に全力だ」ということ。

これは、良くも悪くも、だと思います。
熱いパッションを持って自分の思う教育を実践する、ということにはやはり危険もあるし、子どももさまざまなので、その熱さについて行きたくない子、淡々と事務的に物事を進めたい子もいるわけで、そういった子には学校は辛い場になり得るな、、と感じました。

でも、苦手なことからも逃げずに、全力で努力して、やり遂げたり克服したりする、という経験は、やはり大切な気もします。うーん難しい。

アメリカ(私が日本以外に実際に見た公教育はアメリカのNYとMDの学校だけなので)では、もっと教員はビジネスライクなところがあって、子どもの領分を侵さない、といういい意味での切り離しがあるように感じます。個人の裁量で変えられる内容は、アカデミックな教え方について。その他の生活指導にあたるようなところは、基本的にそれぞれの家庭の考え方などもあるし、口は出さない、ただし、学校生活の中でのルールに外れた場合にはペナルティーを課す、という感じでしょうか。

アメリカは多民族社会、日本は日本人のみの社会というところが大きな違いなのですよね。

個人を尊重することと、協調することのラインをどこ引くか、、そこがポイントなのでしょう。


少し前、東京の日本橋にある分身ロボットカフェ DAWN ver.β に行きました。アメリカ在住の時から知っていて、以前から行ってみたかったのですが、タイミングがあってようやく!

吉藤オリィさんが作ったこの分身ロボットカフェでは、OriHime(オリヒメ)と呼ばれるロボットを、働く人が遠くから遠隔操作して仕事をします。
病気でベッドから動けない方や、障害があって外出がしにくい方も働ける場を作ろう、ということでできた場所だそうです。

障害のある方も自分らしく社会参加できる。
長期入院の子どもも学校の自分の席にオリヒメをおいて、授業を受けることができる。
海外に住んでいても、すぐ近くにいるかのようにコミュニケーションを取れる。
いろいろなシーンで、人を自由にすることができるのだと思います。

お客さんは9割が外国からの旅行者、とのことで驚きました。もっと日本人も行ったらいいのになあ。


Dawn Cafeに行った時、思い出したことがありました。
認知症の方がウエイターを務めた、「注文を間違える料理店」のことです。
社会の不寛容さが、辛い思いをする人を作り出している、という部分があることについて、気付かされます。

こちらの仕掛け人の小国士朗さんのインタビュー後半では、こんなことも書かれていました。

 ただ、本当にものは考えようで、例えば混んでいる駅で、自分が急いで電車に乗ろうとしているときに、前の人が自動改札で「ピンポーン!」と引っかかってしまったら、やっぱりイライラしちゃうんですよ。「急いでいるのに、何してんだよ」って。
 でも、これって「ピンポーン!」と鳴るからイライラするけど、その音が「ドンマーイ!」だったら、多分怒らないなって思うわけです。しょうもないけど、自動改札機が「ドンマーイ!」と言ってくれたら、 周りの人も「そうだよな、ドンマーイ!」とちょっと応援してあげたくなるかもしれない。

小国士朗さんのインタビュー「『注文をまちがえる料理店』から『deleteC』まで。明るく、楽しく、カジュアルに、社会を変えていく」より


「もっと社会が寛容になれば、社会問題のいくつかはそれだけで解決する」

そうなのかもしれないな、と思います。
そして、日本社会がもっと寛容だったらいいのにな、とも、思います。

でも、そこでまた「小学校〜それは小さな社会〜」で描かれた、「日本式教育」を思うと、こうした、集団行動を大事にし協調すること、苦手でも標準に追いつくように努力をして悪目立ちしないようにすること、を大事にする部分が、それを許さない文化を作っているのかもしれないな、とも思うのです。

映画の中で、コロナ禍、、、ぼくたちはマスクをしているのに、していない子がいる。「いけないんだ」とつぶやいてしまうのは、子どもたちの素直な思いです。そこから大人になると「マスク警察」と呼ばれたようなものにつながってしまうのでしょう。寛容さと対極にあるこんな姿が、日本にはみられます。


この映画はフィンランドはじめヨーロッパで大絶賛され、ぜひ日本式教育を取り入れよう、という動きも世界のあちこちであるようです。
先に書いた通り、実際に、栄養を考えた給食やその配膳準備や掃除を自分たちですることなど、子どもたちの自立/自律を助ける素晴らしい活動がたくさんあるわけですよね。


日本人の基本的な気質となっている、「周り(集団)を大事にし、集団のルールの中で、自分個人の権利を主張する」という考えが多くの人の中に存在するからこそ、先に出した震災やコロナ禍に海外から賞賛された日本人の振る舞いなどが自然と起こるのだと思います。
そして、これはやはり基本的に、多くの人の中で過ごす以上、大切なことのように思います。

この考え方と、社会の寛容さは相容れないのか。
両立することはできないのでしょうか。

教育や社会におけるインクルーシブが日本では進んでいないことについても、この辺りが絡まっているのだと思います(そして、インクルーシブ教育についてはまた別のアカデミックな面で考えると、ただ場を一緒にするインクルーシブが必ずしも当人にとって最善とは限らない、ということもあると思うので、みんなでもっと侃侃諤諤議論していけたらいいのになと思います)。


2024年の年末、こんなことを考えながら、実家でお正月準備の買い出しや料理を手伝いに追われています🎍


日本にいる皆さん、そして世界の皆が、暖かくして心穏やかな年末・年始を過ごせるよう、祈りつつ。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

azusa




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