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私たちは未完成交響曲を奏でている

ベルクソンの哲学において、私たちが日常的にこの世界を〈見る〉ということはどのように説明されるだろうか。

〈見る〉という場面を想定するとき、必然的に〈知覚する私〉と〈知覚される世界〉の存在が認められるが、前者と後者の間には〈部分—全体〉の関係性があることが確かだ。〈知覚する私〉という存在は身体という空間的拡がりをもって、この世界の一部を占めているということだ。言い換えれば、〈知覚する私〉も〈知覚される世界〉も物質として地続きになっているといえる。

ではあらためて、〈見る〉とはどういうことか。ベルクソンは脳科学の一般的な見解を否定している。それは〈知覚された世界〉とは脳を中枢とした神経系のシステムによって主観が生み出した「表象」であるという考え方である。なぜなら先述の通り、〈知覚する私〉も〈知覚される世界〉も物質として地続きになっているのだとすれば、ここでいわれる神経系のシステムも物質であることに変わりがないからである。そして「表象」とは何か、どのようにして成立するのか、ここでは説明されていない。(ただ主観的な作用としての「表象」を客観的な物質の世界から隔離された「カプセル」のようなものとして想定しているだけである)〈見る〉とはどういうことか?という質問に対して、脳が生み出している「表象」ですと答えたところで、じゃあ「表象」ってなに?と質問は残り続ける。この点、脳科学が支持する見解では明確な応答が見られない。

ここでベルクソンが極めて強硬な立場をとっていることが分かるだろう。何度も述べるように、ベルクソンは〈知覚する私〉と〈知覚される世界〉が物質として地続きになっていることを認めている。更に「表象」という脳の特権的な作用も認めないとなる。あくまで客観的な物質的な場において〈見る〉という主観的な作用がどのようなメカニズムで働いているのか考察しようというのである。

結論からいえば、ベルクソンは〈見る〉というのは〈知覚する私〉にとって有益な形でこの世界を「切り取る」ことだという。公園で少年が空に向かって紙飛行機を飛ばした。空を飛ぶカラスにとってそれは自身の航路を邪魔する障害物のように視界を遮るかもしれないし、地べたを這うアリにとって空の出来事(紙飛行機が飛んでいる様子)はバックグラウンドのように漠然と拡がっていて、むしろ住処を侵害してくる少年の足が怪物のように視界を侵略しているかもしれない。「有益な形で切るとる」とはこのように〈知覚する私〉に対してどれだけ影響力を持つかにしたがって外界の対象物を分節するように〈知覚された世界〉が形成されるということである。このことをベルクソンは光の屈折を用いて説明してもいる。あらゆる方向から差し込む光がある面に対して反射したり、屈折したり、全反射する。そのとき面に映る虚像が〈知覚された世界〉のようなものだという。つまり〈見る〉=知覚するということは客観的に既にあるこの世界に主観的な成分を付け足すようにして成立するというわけではない。むしろ必要な素材はすべてそろっていて〈知覚する私〉のもとで無関係なものが引き算的に沈んでいくことによって〈知覚された世界〉がぼやっと浮かんでくるのである。

しかしながら、物質からの引き算によって知覚(表象)が成立しているといっても、違和感は大きいだろう。というのも〈知覚された世界〉は明らかに質的な豊かさと時間的厚みを持っていて、量的な相互作用に規定される物質の現場にはそれが見当たらないからだ。では量的なものからいかに質が生まれるのか、問う必要がある。

ベルクソンは生物における〈瞬間〉に継起的な物質的量が凝縮することによって質が生まれるという考え方を採用する。〈瞬間〉とは「感覚できる時間的精密さの限度」を意味する。つまりそれ以上細かな時間的振動には対応できないという個体に固有の時間スケールである。例えば、毎秒400兆回の継起的な光の振動が私たちの〈瞬間〉=視覚的には20ミリ秒において一挙に与えられることによって、質として「赤」の効果を生むというように、色の成立が説明される。同様に音についても私たちは周波数の違いを聞き取るまでもなく「レ」としての質や「ソ」としての質を聞き取っている。つまり、物質の継起的な振動は〈知覚する私〉において解析されることなく、質という新たな効果を生むわけである。

つまり単に「引き算」といっても物質的な世界に既にある素材を減らすだけで「表象」が実現されるわけではなく、むしろ〈知覚する私〉のもつ時間スケールのもとで継起的な現象が圧縮されることにより「表象」が実現されるということである。言ってみれば、〈知覚する私〉のもとで物質的素材が空間的に「選別され」、時間的に「引き延ばされる」ことによって〈知覚される世界〉がおのずと現れるということになる。

生命は時間的な〈拡がり〉を持つ。よりベルクソンっぽく言えば、生命は持続の相のもとに存在している。物質の特徴は量的に規定される相互作用と継起的現象である。それに対し、意識を有する生命の特徴は現在進行形(~している)=未完了相(~しつつある)のもとで常に質的な新しいものを生み出していることである。ちなみにこれは絶対的に認められなければならない前提であるので先に言うが、「常に過去は流れ続けている」。過去が現在進行形の形で常に存在しているということは機能上、条件的に認められることではなく(例えば、過去は脳によって保存されるという主張)、私たちの知覚する現象として過去の存在を認める限り、絶対的に認められることである。なぜなら時間は空間によって説明されえないし、時間が存在するというのなら時間自体の絶対的な存在を認めるほかないからである。(したがって脳が過去の記憶を保存しているという命題は、それでは過去を保存する記憶と脳はどのようにして時間の進行に伴って常に保持され続けるのかという新たな問題を生み出す故、何の説明にもならない。)したがって過去は絶対的に存在している。そして過去は現在と共時的に流れつつある。それは言い換えれば、現在において知覚する一場面は常に過去の一部となるし、現在の知覚する一場面には先回りするかのように過去が入り込んでいるということである。例えば、朝起きて、食事をして、歯磨きをするという日常的な場面を考えるにおいても、厳密にいえば私は毎度全く違う世界に触れているはずである。同じ時間に起きているつもりが昨日より5秒起きるのが遅かったかもしれないし、パンには人間には見えないレベルの微生物が昨日よりも多く付着しているかもしれないし、歯ブラシにつける歯磨き粉の量も昨日より5ミリグラム多いかもしれない。ミクロレベルでは全く異なっているはずの諸場面にもかかわらず、私たちはむしろあまりに日常的過ぎて、退屈で、飽き飽きしているかもしれない。それは習慣が持つ作用による。習慣とはこれまでの私が経験してきたあらゆる諸場面が持つ傾向性に沿って、現在もまたあたかも同じように行動することをいう。逆に習慣がなければ圧倒的な外界の情報量に私たちは耐えられない。習慣が持つ効用、つまり過去の諸場面が現在の知覚の場面に入り込むことによる効果のおかげで、私たちは安定的な現在の場面を知覚できる。そしてこの現在の知覚の場面もまた、過去の一部となり、ほかのあらゆる諸場面とともに過去の流れを形成するのである。過去と現在が共時的に流れているというのはこのことである。

最後にまとまった理解の手助けとして、これらをすべて音楽的に説明しようと思う。私たちは物質的な継起的振動としての周波数から個別具体的な質を帯びた持続的な音を聴く。非連続的にバラバラと単音を聴くのではない。ひとつひとつの音がメロディーを構成しつつも、むしろメロディーがひとつひとつの音に独特の質をもたらすように有機的で持続した音を常に聴きつつある。メロディーはすでに前もって確定されているわけではなく、常に仮固定のままである。もしかしたら次に流れる音で全体としてのメロディーが大きく変容し、AメロからBメロへと移行するかもしれない。メロディーは常に現在進行形=未完了な形で形成途中にあり、一つ一つの具体的な音も現在進行形=未完了な形で私の耳に入ってくる。このような途上の運動性が持続にほかならず、生命は持続の相のもとで今もなお、存在しているわけである。そしてベルクソンにおいて人格は交響曲に例えられる。私の記憶における多様な過去がオーケストラを編成するように組織化し、ある程度安定的な「人格・性格」としての効果を生み出すのである。(「人格・性格」というのも固定的で一意的に決められるようなものではなく、常に変わっていく可変的なものである)つまり私というオーケストラが未完成な交響曲を常に即興的に変奏しているかのように、今流れていく音は先行・後続するメロディーを生き生きと紡いでいくし、メロディーによって紡がれてもいくのである。この意味で、私たちは常に未完成な交響曲を変奏している音楽的な存在なのである。


参考文献
・アンリ・ベルクソン著/杉山直樹訳(2018)『物質と記憶』講談社学術文庫
・アンリ・ベルクソン著/藤田尚志, 平井靖史, 天野恵美理, 岡嶋隆佑, 木山裕登訳『記憶理論の歴史—コレージュ・ド・フランス講義 1903-1904年度』書肆心水
・杉山直樹(2024)『精神の場所—ベルクソンとフランス・スピリチュアリスム』青土社
・檜垣立哉(2022)『ベルクソンの哲学—生成する実在の肯定』講談社学術文庫
・檜垣立哉, 平井靖史, 平賀裕貴, 藤田尚志, 米田翼(2022)『ベルクソン思想の現在』書肆侃侃房
・平井靖史(2022)『世界は時間でできている—ベルクソン時間哲学入門』青土社
・前田英樹(2024)『ベルクソン哲学の遺言』講談社学術文庫
・米田翼(2022)『生ける物質—アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想』青土社


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