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【富士川町民俗資料館】旧舂米学校、小学校の片隅に建つ擬洋風建築

はじめに

 「富士川町民俗資料館」は、富士川町立増穂小学校の敷地内に建つ明治時代の学校建築です。
 明治期の山梨では官公庁の建物をはじめ、学校建築に擬洋風建築が多く採用されていました。擬洋風建築とは日本建築に西洋建築を似せて造った建物のことです。
 この富士川町民俗資料館も擬洋風建築のひとつです。元は舂米(つきよね)学校の校舎でした。
 民俗資料館としては、1974年(昭和49年)、増穂町民俗資料館として開館しました。2010年(平成22年)に増穂町、鰍沢町が合併し富士川町となり、現在は富士川町民俗資料館となっています。
 明治期の校舎が現役の小学校の片隅に建つ姿は異色の存在感を放っています。

一般道から見える後ろ姿、隣は体育館

道の駅富士川

 民俗資料館から1キロメートル余り離れたところに「道の駅富士川」があります。中部横断自動車道の増穂ICに隣接し、サービスエリア的機能を兼ねる大型の道の駅です。
 何より目をひくのが、舂米学校をデザインした大きな建物です。これは展望学習室でイベントスペースなどに利用されています。最上部は太鼓楼も再現されていて、螺旋階段で上れます。太鼓が置いてあって鳴らすことができます。
 この建物がいかに地元で愛されているかが伺えます。

新東名まで直結したことでたいへん賑わっています

藤村式建築

 拙稿「藤村記念館」にて紹介しておりますが、藤村式建築について簡単におさらいしておきます。

 藤村式建築は、明治時代初期の県令(現在の知事に相当)である藤村紫朗(1845年~1908年・弘化2年~明治41年)に由来します。藤村は擬洋風の校舎を作るよう推奨しました。藤村が進めた擬洋風の学校建築は共通の特徴を持つことから現在では「藤村式建築」とは呼ばれています。現存している藤村式建築の建物は5棟のみです。
 さて藤村式建築の特徴ですが、建物全体の形は、左右対称の2階建てで1階中央に入り口と2階部分にパルコニーがあります。また屋根の上に突き出た太鼓楼という塔部分があります。また上空からみると建物は正方形の形をしてます。こうした姿から「インク壺」とも言われていました。
 この舂米学校の校舎も、これらの特徴をすべて備えています。

太鼓楼に乗る鯱鉾は独自
中央にバルコニーがあります
正面入り口と木造の円柱
菱形の透かし天井とアーチ窓
木造の円柱
黒色の漆喰で石を再現

 こうした、藤村式建築の学校でしたが、建築の費用は地元負担とされ各地で苦労していました。舂米学校の場合、建築費用3850円のうち3550円と土地500坪を地元の豪農で貴族院議員も務めた小林小太郎(1846~1901年・弘化3~明治34年)が寄付しています。

富士川町民俗資料館(旧舂米学校)

 民俗資料館ですが、はじめは1876年(明治9年)に舂米村に建てられた舂米学校の校舎でした。舂米は「つきよね」と読む難読地名です。
 1888年(明治21年)増穂村が発足し、増穂小学校が開校することとなると増穂小学校の本館としてこの地に移築されました。左右には西館と東館を建てた立派な姿になりました。両館は男学校、女学校と男女別に分かれた校舎でした。現在ある体育館の辺りだそうです。

増穂小学校時代の姿、露払いと太刀持ちを従えたよう

 その後、増穂小学校の校舎が新築されたことで役目を終えて、1921年(大正10年)からは増穂村役場として1966年(昭和41年)まで使用されました。
 1972年(昭和47年)火事で増穂小学校の校舎と体育館を焼失します。再建する体育館の建設地にかかることから1974年(昭和49年)に曳家工法により校庭が見える現在の場所に移動し復元工事を行いました。
 つまり、現在の場所に落ち着くまで2度移築されています。
 1975年(昭和50年)県指定の文化財に指定されています。

石橋湛山

 外に総理大臣(第55代)を務めた石橋湛山(1884~1973年・明治17~昭和48年)の胸像があります。石橋湛山は在職期間が65日と短命な内閣として有名です。
 湛山の父が増穂町出身の僧侶(後の身延山久遠寺81世法主・杉田日布)であり、父が町内で住職にあった3年間はこの小学校に通っていました。

胸像は生誕130年を記念して2014年(平成26年)に設置

一階部分

 スリッパに履き替えて建物の入ると、簡単な受付があります。無料なので入館簿に氏名等記入するだけです。
 地元の年配の方が管理人(館長?)をされています。さすがよく地域の事をご存じです。さらには、リニア中央新幹線の建設ルートを示す地図があってルートについても説明くださいました。

受付と廊下、左右に一部屋ずつあります


 一階は左右に一部屋ずつあり、左の部屋は、この学校に関する資料や古い写真、昔の教科書が展示されています。

校舎に関する写真
この建物の平面図
ガラスケースには教科書など

 右の部屋は復元教室となっていて木製の机が並んでいます。机の上にはガリ版を切る道具と後ろにインクが用意されています。平日は放課後に児童がガリ版を切って遊んでいくとか。
 また周囲には歴代校長の写真や、蓄音機、真空管ラジオや手回し計算機、タイプライターなど備品や古道具が置いてあります。

ガリ版セットが並ぶ机
この建物の瓦ではないようですが、あと鯱鉾の解説

二階部分

 二階部分はひとつの部屋になっています。終了証書や成績表、戦時中のものなどが展示されています。また、この近くに終点があったボロ電こと山梨交通電車線(昭和37年廃止)のことや、青い目の人形に関する展示コーナーがあります。
 カーテンで締め切ってあって、外のバルコニーへ出ることはできません。

二階、さらにその上に進む階段
二階の概観

青い目の人形

 「青い目の人形」とは、アメリカ国内で反日感情が高まっていた1927年(昭和2年)、アメリカの宣教師シドニー・ギューリックが友好を目的として日本各地の学校などに人形を贈る活動を行いました。
 アメリカから日本におよそ1万2000体の人形が贈られました。しかし、その後の太平洋戦争などの影響でほとんどが処分されています。
 山梨県には129体の人形が来たとされます。しかし、現存が確認されているものは5体のみとたいへん貴重な品です。そのうちの1体であるモナーが展示されています。

モナーちゃん、元は増穂南小学校へ贈られた人形
解説パネル

桑の皮の国民服

 子供のマネキンが国民服を着ていますが、かなり貴重なものです。というのも、この国民服は桑の枝からむいた皮を集めて繊維としたものです。山梨は山梨県内は養蚕が盛んだったため、桑から繊維を採取したのでしょう。
 同様のものは、県内で探しても養蚕がかつて盛んだった旧豊富村のシルクの里公園にある中央市豊富郷土資料館ぐらいしかないようです。

桑の皮の国民服を着たマネキンと関連資料

ボロ電

 ボロ電とは山梨交通電車線のことで、1962年(昭和37年)まで甲府駅前駅―甲斐青柳駅(増穂町青柳)まで走っていた鉄道です。こちらから少し離れた増穂図書館のところが終点の跡です。ボロ電と呼ばれる理由には諸説あるのですが、年配者にはボロ電と言えばすべて通じます。

写真と路線図、近くに終点の甲斐青柳駅があった

 線路を転用した道(廃軌道と言って道路です)に沿って進むと現存する唯一のボロ電車両が展示保存されている利根川公園があります。廃止後江ノ電へ譲渡され再び帰って来たものが余生を送っています。

利根川公園で余生を送るボロ電

太鼓楼

 二階からさらに階段を進むと太鼓楼です。太鼓楼はチャイムの代わりに太鼓を鳴らして始業と終業を知らせていたものです。階段を進みさらに螺旋階段を進むと最上部へたどり着きます。
 最上部の窓も四角とアーチ型が交互に配置されています。

鎧戸から陽が差します

おわりに

 日曜日と水曜日が開館日ですが、休日の見学者は決して多くはありません。一方で水曜日は放課後増穂小学校の児童が遊びに来るのです。入館簿には児童のクラスとニックネームが書かれていっぱいなのです。学校の中に文化財のあって放課後遊びに行けるなんて素敵な小学校です。

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