【旧田中銀行博物館】勝沼の旧甲州街道に建つ擬洋風建築
はじめに
観光ぶどう園が立ち並ぶ、甲州市勝沼の旧甲州街道沿いに擬洋風建築の建物があります。車で走行しているとうっかり見落としてしまいそうな小さな建物です。
この建物は旧田中銀行博物館といます。裏にある煉瓦造りの土蔵とともに、1997年(平成9年)国の登録文化財に指定されています。1998年(平成10年)に田中家より勝沼町(当時)に寄贈され大正時代の姿に復元されました。市町村合併を経た現在は甲州市により管理公開されています。
また、日本遺産『日本ワイン140年史』の構成資産にもなっている建物です。
画像は2022年8月、及び2023年3月の撮影を併せて使用しております。とくに2023年3月は隣接の住宅が無くなったことで、すべての外観がを見られるようになりました。
第六の藤村式建築
この旧田中銀行博物館は、明治期の山梨に多く作られ、現在も残る擬洋風建築のひとつです。
山梨県内では、藤村式建築と呼ばれる擬洋風の学校建築が建てられましたが、現在は5棟が残るのみです。藤村式建築を多数手がけた大工の棟梁、松木輝殷により、この建物は作られました。そうしたことから第六の藤村式建築とも呼べる建物です。
松木輝殷の手がけた藤村式建築は、藤村記念館(旧睦沢学校)として現存しています。拙稿をご覧ください。
さて、藤村式建築に見られる特徴がこの建物にもあります。まず建物全体の形が左右対称の2階建てです。1階中央に玄関ポーチと2階部分にバルコニーがあります。また、壁面は漆喰を使い石造りのような意匠に仕上げています。
バルコニーの天井は菱形を透かした意匠になっています。
玄関ポーチの柱は木造で円柱が多く採用されていますが、こちらは多角形の柱です。
扉の抑えに使用しているのは葡萄酒の「一斗瓶」(18リットル)です。かつて勝沼地域のブドウ農家は自家消費のため出荷できないブドウを使って醸造を行っており、そうした葡萄酒の保存用のものです。
土蔵と笹子トンネルの煉瓦
建物の裏には煉瓦造りの土蔵があります。後述しますが大正9年の田中銀行の設立に合わせて、証券などの担保書類を保管するために作られました。さらにその奥には別の個人所有となっていますが、繭蔵1棟が改修されて残っています。
この土蔵に使用されている煉瓦は、明治36年に開通した中央線笹子トンネルに使用されたものと同じです。現在も勝沼の甲州街道沿いにはレンガ造り蔵や塀が多数見つけることができます。こうしたことから、大量に作られた煉瓦が勝沼界隈で使用されていたことが分かります。
笹子トンネル建設のための煉瓦は、トンネルの東側と西側にそれぞれ工場設けて製造されました。『塩山市史』によれば、明治30年に西野原地区の総代から東山梨郡長に工場の煤煙による被害を訴える「御願」が提出されています。現在、塩山西野原地区に煉瓦工場の痕跡はまったく残っていません。粘土は勝沼の休息地区のものが使用されたようです。
建物用途の変遷
この建物は、1897年(明治30年)、勝沼郵便電信局舎として建築されたと言われています。それ以前との説もありますが、甲州市では明治30年説を採っています。
局舎の建設は、局長田中英作が松木輝殷に依頼しています。松木輝殷による明治13年完成の勝沼学校(現勝沼小学校)の建築に魅せられたからだといいます。
勝沼郵便電信局舎としては、局長が若尾勘五郎に変わり移転する明治35年まで使用されました。
その後は、皇族(北白川宮、朝香宮)の宿泊所、山梨田中銀行、住宅、戦時中には北白川宮家の疎開先と用途を変えてきました。そのたびに内部は改装されています。
勝沼町による復元は、下記のリーフレットの写真にある大正時代の姿に戻されました。写真は提灯と日の丸が掲げられ、北白川宮成久王が宿泊したときの姿です。
山梨田中銀行
1920年(大正9年)に田中董策(頭取)、田中慶重(田中英作の子、田中董策の従弟)らが中心となり、山梨田中銀行が設立され、その社屋兼店舗となりました。カウンターを広げ、間仕切りの変更など大きく改築されています。また、煉瓦造りの土蔵も作られました。しかし、世界的な恐慌により昭和6年に休業状態となり、昭和11年に銀行業務を廃止しています。
余談ですが、田中董策の長女初子は富士急行の二代目社長で衆議院議員も務めた堀内一雄に嫁いでいます。小泉郵政改革に反対した堀内光雄衆議院議員の母であり、現社長光一郎の祖母になります。光一郎の妻が堀内のり子衆議院議員です。
北白川宮の疎開先
銀行業務を廃止後は、住宅として使われていました。とくに戦時中は田中本家に北白川宮道久王が疎開したことを受け、宮家の職員であった水戸部孚が二階部分を住居にしていました。
終戦後はしばらく、一階部分も仕切って部屋を作り田中家の住宅としていたようです。
貴重な名刺がありました。水戸部孚、田中董策(頭取)、田中逸策(董策の長男で建物の寄贈者)です。
なお、田中逸策は都内在住だったため、寄贈された時は建物はやや荒れた状態になっていました。
勝沼郵便局
勝沼郵便局の変遷についても少し触れておきます。
明治初めの勝沼郵便取扱所から始まり、若尾家と田中家が局長を務めてきました。
・明治5年 局長若尾所右衛門 (勝沼郵便取扱所開設)
・明治7年 局長田中栄兵衛
・明治22年 局長田中英作 (明治30年 勝沼郵便電信局庁舎建築)
・明治35年 局長若尾勘五郎 (明治35年 庁舎移転)
その後の局長は若尾賢、若尾洸一と世襲され洸一の退職まで若尾家が続きました。その後の郵政民営化を経て現在に至ります。
若尾勘五郎により、局舎を甲州街道の勝沼小学校付近(現在の若尾農園)に移転しています。
さらに、若尾賢の局長時代(昭和40年代)、甲州街道の交通量増加により集配車の出入りが困難になり、勝沼小学校の裏の現在地へ移転しています。ちなみにこちらの若尾家は甲州財閥の若尾逸平との関係はありません。
田中のフェンス
田中銀行博物館の建物をもう少し見てまいります。
特徴的なものは、まず田中の文字をデザインしたフェンスです。戦時中に金属供出され、戦後は簡易な格子に置き換えられましたが、大正時代の写真を元に復元修理されました。
また二階のバルコニーの手すりなども簡易なものから、復元修理されています。
頭取の机
建物1階は間仕切りはなく広々として、銀行時代の頭取の机や、ソファーなどが置かれています。洋風の銀行時代の雰囲気を再現しています。窓は引き上げ窓で、ガラスは当時のものです。
頭取の机があり、後ろには頭取田中董策の帽子とカバンが掛けてあります。
田中銀行の営業とは時代が合わないのですが手回し式計算機があります。
頭取の机の隣のガラスケースにいろいろなものが入れられています。わりと貴重なものとしては、田中銀行時代の印章ですが、しかし雑多に置かれています。
戦時中の少額紙幣(楠正成像)などが残されています。
NHK-BS「甲州街道てくてく旅」(旅人 : 勅使河原郁恵、2007年)で朝の中継がこの近所の蔵座敷のおうちであったそうです。
真空管ラジオや昔の甲州街道の写真などがあります。
勝沼郵便電信局の名残りなのか、電話室があります。中にはグレーの公衆電話が置かれていて今も使用することができます。
タカラヅカ
田中董策氏の娘(ハツコ?ミヤコ?)がタカラヅカのファンだったようです。
残された本棚には渋沢栄一全集などと一緒に「推し」の男役さん(葦原邦子)のポートレイトがありました。
染付の便器
トイレは男子小便用と個室と両方とも染付の便器になっています。現在は使用できないため、現在の洋式トイレが別途増築されています。
木目のペイント
らせん階段で2階へ向かいます。2階はすべて畳敷きの和室になっていて、住居として使われた時代の名残りがあります。
扉は木目に見えますが、実はペンキによる木目の再現です。また、扉のノブや蝶番なども現在では使われていないものです。
徳川の箪笥
2階でまず目に入るのが、徳川の三つ葉葵の紋の箪笥と屏風です。
この箪笥は布団を入れる箪笥ですが、水戸徳川家の12代当主の次男へ嫁いだ北白川宮の第3王女(多惠子女王)が疎開の折りに屏風とともに持ってきたものです。戦争も終わり戻るときにはこの箪笥と屏風は田中家に置いていってしまったのです。
箪笥を開く金具の部分は手が触れる部分のため、恐れ多いということで二葉の葵のデザインになっています。
書斎
書斎として使われた部屋ですが、和室でありまがらロールカーテンで復元されてます。ちなみに窓のガラスは当時のもので少しゆがみがあります。もし割れても技術が進歩した現在では同じものは手に入りません。
和室
箪笥の隣の部屋は和室ですが、洋風のカーテンが使われていたことからカーテンに統一して復元されているそうです。
南北朝の忠臣楠木正成の嫡男で小楠公こと楠正行の人形があります。これも北白川宮の置き土産のようです。
旧田中銀行博物館友の会
旧田中銀行博物館の受付とガイドは、復元公開が始まった当初より「旧田中銀行博物館友の会」という地元のご年配たちで結成されたボランティアが行っていました。
しかし、友の会のメンバーも少なくなり2021年(令和3年)11月をもって最後の方たちが引退されました。いまは甲州市のシルバー人材の方が受付をされています。
友の会の方の説明は地元だからこそ知っている、とても詳しい内容でした。筆者のような若輩にも大変詳しく教えてくださり、話がはずんでコーヒーをご馳走になった思い出があります。本稿については、その時にお聞きした内容に依るところがたいへん大きいのです。
おわりに
地域ボランティアにより、管理案内してきた旧田中銀行博物館は地域で文化財を守ってきた好例と思われましたが、後を託せることができないまま最後の方たちが引退されました。
修復からおよそ20年が経ち今後の修繕費用の問題もあるでしょう。用途を幾度と変えながら奇跡的に残った建物ですが、この先の保存や運営については懸念が残ります。
現存する5棟の藤村式建築です。