【山梨県立博物館】シンボル展「郷土史をのこした人々」を見に行く
はじめに
山梨県立博物館にて、シンボル展「郷土史をのこした人々」(2024.5.25~6.24)がありました。
地域の自然、文化などを記したものを地誌といい、奈良時代に編纂された「風土記」が最古といわれます。山梨の地誌は江戸時代に編纂された「甲斐国志」に始まります。
また、郷土資料としては、南アルプス市出身の功刀亀内の蒐集した「甲州文庫」があります。所蔵している山梨県立博物館も「甲州文庫」を裏付けとする展示が多いほど山梨の郷土、文化を知るうえで重要な資料となっています。
トップ画像は本展にも展示されている「ヨゲンノトリ」の載った資料です。
本稿は、筆者も関心のある郷土史をテーマにしているため自然と分量が多くなってしまいました。山梨では、こういう人たちが郷土の資料を集めて現在に至っているんだ、くらいにご覧ください。
郷土史をのこした人々
まず、江戸時代に編纂された山梨の地誌「甲斐国志」の紹介があります。
続いて、郷土資料(史料)として価値の高い「甲州文庫」についての展示があります。
最後に、甲州文庫を蒐集した功刀亀内をはじめ、大正から昭和にかけて郷土史に関わった人物の紹介と、3部に分けて構成されます。展示資料はおよそ70点となります。
展示室の撮影はできないため、画像は山梨県立博物館、山梨県立図書館のデジタルアーカイブなどから出典を明記し掲載しています。
第1章 山梨を書きのこす
まず、山梨は江戸時代に数多くの地誌や紀行文が書き残されています。これらを紹介しています。
地誌とは、地域の自然や地理、文化など、さまざまな特徴や伝承を記録したものです。地誌や旅人たちが書き残した地域の姿は当時は外部に発信する媒体であり、現在においては当時を知る貴重な資料となります。
展示では「甲斐国志」をはじめ、複数の地誌、紀行文を紹介しています。
1-1 甲斐国志
「甲斐国志」は19世紀初頭の編纂にされました。下記展示室の画像の右ガラスケースにあるのが甲斐国史です。ただし明治の初めに作られた活字本です。
「甲斐国志」は甲府勤番だった松平定能が中心となり在任中の1805年(文化2年)に編纂を始め9年の歳月を経た1814年(文化11年)全124巻にまとめられ、幕府に献上されました。「甲斐国志」は原本が幕府に献上されているため写本により流布しました。
◇「甲斐国志」甲州文庫、1882年(明治15年)
明治以降は6種(あるいは7種)の活字本がつくられています。そのうちの一つである小野泉校正、峡中新聞の発行人である内藤伝右衛門(1844年~1906年、弘化元年~明治39年)によって出版されたものが展示されています。全30巻です。この活字本により一般でも入手しやすくなりました。
山梨デジタルアーカイブ(Web上で閲覧できるようになっています)
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000019-YMNS1000080
峡中新聞は後の山梨日日新聞です。発行人である内藤伝右衛門ですが、東山梨郡八幡北村(現山梨市)の出身ということから、山梨市の牧丘郷土資料館でパネルを発見しました。
ちなみに、内藤は新聞事業を明治13年に野口英夫に譲ります。後述する郷土史家野口二郎は野口英夫の息子で山梨日日新聞の2代目社長です。
甲斐国史の編纂に関する資料があります。下記3点は必用な調査項目を記したものや草稿です。
◇「甲斐国志案文」頼生文庫、1804年(文化元年)
◇「甲斐国志編集資料書上要項覚書」甲州文庫、1806年(文化3年)
◇「甲斐国志草稿」高室家資料、江戸時代
1-2 他の地誌や紀行文
「甲斐国志」の他にも地誌や紀行文の展示があります。簡単に紹介します。
◇「甲国聞書」赤岡重樹旧蔵資料、1660年(万治3年)
幕府よって甲州を巡見した小峰弘致の覚書です。
◇「甲斐国志古文書」赤岡重樹旧蔵資料、江戸時代
画像が用意できませんでが赤岡自身の手により、古文書を筆写したものです。山梨へやってきた人々の視線や関心事が分かるといいます。
これらの資料を集めた赤岡重樹(1884年~1965年、明治17年~昭和40年)は須玉町(現北杜市)出身で大正、昭和期の郷土史家です。
◇「風流使者記」甲州文庫、江戸時代
柳沢吉保より甲斐に派遣された荻生徂徠による紀行文です。
◇「ひとりね 乾・坤」甲州文庫、江戸時代
柳沢吉保の子、吉里に仕えた柳沢淇園による随筆集です。
◇「甲州噺書写断簡」上野晴朗氏収集資料、江戸時代
享保17年に検知に訪れた人物が記したとされ、その写しの一部とされます。
収集した上野晴朗(1923年~2011年、大正12年~平成23年)は山梨の郷土史家で大河ドラマ「武田信玄」(1988年)の時代考証を担当しました。
◇「裏見寒話」頼生文庫、1752年(宝暦2年)
甲府勤番士としておよそ30年勤務した野田成方(1699年~1764年)が記したもので、山梨の特徴を多岐に渡って描いた随筆です。全6巻。
「葛の葉や 裏見で寒し 甲斐の不二」と詠んだ野田の句から題があります。
少し面白い記述がありました。3巻の「甲斐のぬる湯」に関する内容です。甲斐の温泉はぬるいお湯であるというのですが、ここで挙げてある温泉は湯村、下部、塩山、川浦、黒平、板垣、教安寺、西山の湯、御城内と9つの湯です。源泉の温度は明治時代に図ると20.4度だったそうで確かにぬるいというよりも冷たい温泉です。筆者も下部など古い温泉はぬるいという印象を持っているのですが、その通りだったことになります。
山梨デジタルアーカイブ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000021-YMNS0121705
上記の「裏見寒話」は、東山梨郡平等村(現山梨市)の郷土史家萩原頼平(1878年~1951年、明治11年~昭和26年)が蒐集した「頼生文庫」によるものです。「頼生文庫」も「甲州文庫」同様貴重な郷土資料群です。
◇「甲斐叢記」長谷川家文書、1851年(嘉永4年)
江戸時代後期の儒学者大森快庵(1797年~1849年)が著した地誌で出版は内藤伝右衛門です。全10巻。
記述内容とともに多くの挿画が貴重です。「峡中(甲斐)八珍果」がよく知られています。峡中八珍果は、江戸時代に甲斐国の代表的な8種の果物を総称したものす。葡萄・梨・桃・柿・栗・林檎・石榴・胡桃(または銀杏)です。
山梨デジタルアーカイブ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000021-YMNS0121758
◇「甲斐廼手振」 赤岡重樹旧蔵資料・若尾資料、1850年(嘉永3年)
甲府学問所(徽典館)の学頭を務めた宮本定正が記した甲府を中心とする記録です。
◇「並山日記(序及び目録、1~10)」若尾資料、1850年(嘉永3年)
国学者黒川春村が山梨を訪れ際の記録です。
◇「峡中沿革史」甲州文庫、1888年(明治21年)
東山梨郡八幡村(現山梨市)出身の新聞記者望月直矢による山梨の社会を描いた随筆です。一般からの視点で記されているといいます。
◇『甲斐の落葉』個人蔵 、1975年(昭和50年)
甲府教会に赴任した牧師、山中共古(1850年~1923年、嘉永3年~大正12年)が約7年間の山梨県での伝道生活のなかで見つめた山梨の民俗が描かれています。明治中ごろの山梨県の民俗を知るうえで、大変貴重な資料といいます。
元版は下記画像の『甲斐の落葉』郷土研究社、1926年です。
山梨デジタルアーカイブ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000016-YMNS0200077
◇「甲州見聞記」甲州文庫、1912年(大正元年)
新聞記者松崎天民が皇太子(後の大正天皇)の行啓に合わせ来県した際に取材した内容を記しています。甲州財閥の筆頭格若尾逸平と会見、方言や水害に見舞われる事情などにも触れられています。
山梨デジタルアーカイブ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000016-YMNS0210004
1-3 ヨゲンノトリ
「暴瀉病流行日記」という資料があります。近年の新型コロナ流行で話題となった「ヨゲンノトリ」の載った資料です。
◇「暴瀉病流行日記」頼生文庫、1858年(安政5年)
「暴瀉病」とはコレラのことで、甲斐国におけるコレラ流行の様子を市川村(現山梨市)の名主喜左衛門が記した日記です。
8月の頁に頭が2つある不思議な鳥「ヨゲンノトリ」の絵が描かれています。「ヨゲンノトリ」はコレラが流行する前年の安政4年に現れ「私の姿を朝夕に拝めば、難を逃れることができるぞ」と言ったとされています。
コレラの流行拡大状況に触れておきますと、8月初頭、喜左衛門が聞いた噂にて「ヨゲンノトリ」現れました。この時、甲府ではコレラで日に30~40人が亡くなっており、甲府の寺社では、病魔退散を祈る祈祷や祭礼が盛んに行われていたといいます。
8月16日頃から、喜左衛門は村で昼夜の念仏を唱えます。農民も商人も、仕事を休んでひたすら念仏を唱える日々が続いたとあります。
9月に入ると、流行はやや収束したようです。甲府におけるコレラの死者は683人であったとまとめられています。
詳細は山梨県立博物館の特設サイトでご覧ください。
第2章 山梨の文化をのこす
続いては、山梨郷土史を知る上で資料(史料)として価値の高い「甲州文庫」についての展示です。
2-1 甲州文庫の特別展示会
「甲州文庫」は功刀亀内が蒐集した2万3000点に及ぶ山梨に関する歴史資料群てす。
山梨県民に甲州文庫が知られる契機となった1949年(昭和24年)の甲府市制60周年記念郷土展(甲府銀座通り松林軒デパートにて開催)でした。
その後、「甲州文庫」をぜひ山梨県に譲ってほしいという声が上がり、1951年(昭和26年)に山梨県に移管されました。その年に「甲州文庫」の移管を記念する「甲州文庫特別展示会」が山梨県立図書館で開催され、数々の展示資料が多くの人々の目に触れて楽しませたといいます。
2-2 甲州文庫、当時展示された資料
「甲州文庫特別展示会」の展示資料目録をもとに、当時展示された書画や資料の一部を再現展示しています。
解説によれば、県立博物館のさまざまな展示でもご紹介したものもあり、はじめてお目にかかる資料もあるとのこと。残されたさまざまなジャンルの資料からは、山梨の産業、文化芸術がなど多様な文化を感じ取ってほしいといいます。
◇「富くじ錐・木札・興行関係資料」甲州文庫、江戸時代
江戸時代に大流行した「富くじ」(宝くじ)の木札など興行に関する資料です。
◇岩代国蚕種、甲州文庫、明治時代
かつて山梨も養蚕が盛んでしたが、蚕を孵化させる前の種紙です。
◇「おかぶと木型」甲州文庫、近代
甲斐国独自の節供飾りである「おかぶと」の木型です。この木型に和紙を張り重ねいき面を作ります。
◇「甲州枡」甲州文庫、江戸時代
甲斐独自の規格である「甲州桝」です。京桝よりはるかに大きく、甲斐の国中三郡(山梨郡・八代郡・巨摩郡)で江戸時代を通じて用いられた地域枡です。甲州桝の1升は京升の3升になります。
◇「水晶眼鏡」甲州文庫、1880年(明治13年)
このレンズが水晶の眼鏡は、老眼用で枠は水牛の角、眼鏡ケースは木製で明治13年制作とあるといいます。
水晶眼鏡は、江戸末期の「甲府買物独案内」にも水晶細工の商品として見ることができるそうです。
◇「甲府買物独案内」 甲州文庫、1872年(明治5年)
当時の甲府の町の繁栄ぶりが分かる資料です。
山梨デジタルアーカイブ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000021-YMNS0121739
◇「鑑札類」甲州文庫、江戸~明治時代
画像は用意できませんでしたが、「鑑札類」絵馬のような木札でたくさんぶら下げてあります。鑑札は、さまざまな活動に許可を与えるいわば許可証です。
◇「野売免許朱印状」甲州文庫、1541年(天文10年)
こちらも許可状で、原七郷(現南アルプス市の干ばつ地域)の人々に対し、軍馬用飼料の功績があったので特産の果物の販売を認めるという許可状です。
◇「疫病退散に付差紙」甲州文庫、1858年(安政5年)
ヨゲンノトリの「暴瀉病流行日記」にもあったように、コレラなどの疫病の流行に人々は神仏にすがり祈り、その難を逃れようとしました。
疫病神との書状のやりとりも、そうした祈りの一環だったといいます。「疫神差紙」はむしろ代官などが疫病神に対して退散を命じた手紙です。
◇「ビール開業広告」甲州文庫、1874年(明治7年)
山梨で最初にビール製造を試みた野口正章のビール醸造所の広告です。野口正章は甲府の柳町で十一屋という酒蔵(清酒君が代)を営んでいました。1874年(明治7年)にビール醸造を開始し、三ツ鱗ビールとして売り出しました。
◇「生糸商標」甲州文庫、近代
山梨は養蚕が盛んでした。こちらは山梨から出荷していた生糸のラベルです。
山梨デジタルアーカイブ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000021-YMNS0121468
◇「長沢組マッチ商標集」甲州文庫、近代
増穂町(現富士川町)で集めたマッチ箱コレクション。
◇「峡中広告集」甲州文庫、江戸~明治時代
甲府を中心とした、米屋・呉服屋・魚屋・菓子屋などの商店や旅館や料亭また、病院とさまざまな広告チラシ、案内を貼付けたものです。いわば広告のスクラップブックです。この資料は功刀亀内氏自ら整理して貼り込みをしたもので、防虫・防湿用に柿の渋を塗った表紙で綴じられています。
山梨デジタルアーカイブ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000021-YMNS0121808
◇「上下府中町触」甲州文庫、1665年~1872年(寛文5年~明治5年)
甲府城下の人々への御触れ(通達)を集めたものです。甲府の行政の動向を知る上で貴重な資料です。功刀亀内も「ふたつとありますまい」と自信をもって語っていた資料といいます。
山梨デジタルアーカイブ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000021-YMNS0121131
◇「高芙蓉印譜」甲州文庫、江戸時代
画像は用意できませんでしたが、印聖と呼ばれた江戸中期の篆刻家高芙蓉にまつわる印影を集めたものです。山梨の地場産業である印章加工が江戸時代に成立していたことが分かります。
◇「座光寺南屏書跡」甲州文庫、江戸時代
書画については画像が用意できませんでしたが、こちらは、市川大門町(現市川三郷町)の医師で儒学者である座光寺南屏が筆をふるったものです。
◇「富田武陵書跡(武陵書蹟 百寿之図)」甲州文庫、江戸時代
富田武陵が筆をふるったもの。富田は甲府学問所(徽典館)の学頭であり、「甲斐国志」の編纂作業を行った人物です。
◇「乙骨耐軒書跡(耐軒書蹟 七律)」甲州文庫、1845年(弘化2年)
幕末の儒学者である乙骨耐軒(1806年~1859年、文化3年~安政6年)の書です。耐軒は、1843 年(天保14年)、徽典館が再編整備された際学頭に就任し、甲府に赴任しました。一画一画が丁寧に書かれ、筆者の几帳面な性格がうかがえるといいます。
◇「加藤竹亭書跡(竹亭書蹟 王維詩)」甲州文庫、江戸時代
加藤竹亭の筆による中国唐の王維の詩です。
竹亭は、甲府八日町一丁目(甲府市中央)の商家・若松屋の二代当主
甲府に本格的な学芸文化を導入した国学者らに学んだ文人でした。
◇「若尾逸平書跡」甲州文庫、1900年(明治33年)
甲州財閥の筆頭格である若尾逸平による数え81歳の時の書です。若尾は晩年になっても書の手習いをしていたといいます。
◇野口小蘋「梅花図」甲州文庫、近代
野口小蘋は山梨で最初にビール製造を試みた野口正章の妻で日本画家、南画家です。「梅花図」はやわらかなタッチで梅の花が描かれているといいます。
◇「キの神」甲州文庫1802年(享和2年)
山梨岡神社(笛吹市春日居町)に祀られる「キの神像」を描いたものです。「キの神像」は鬼のような顔に一本足の奇妙な形をしています。雷除け、魔除けの信仰があります。
(「キ」の漢字はPCで文字出力できないためカタカナで表記します)
◇「甲斐国金峰山金櫻神社御嶽山晩春之図」甲州文庫、年代作者不詳
甲府の名勝昇仙峡の金櫻神社より、金峰山山頂に至る登山道を描いたものです。
◇「勧業製糸場七言絶句」甲州文庫、1877年(明治10年)
明治の初期、甲府に作られた、勧業製糸場で働く着物姿の工女を描いた絵画です。この製紙場にまつわる漢詩文を記してあり、明治時代外交官として活躍した田辺太一の作とされています。
展示室では、紙芝居「甲州文庫物語」を投影中でした。製作は博物館の職員です。
下記画像は、甲州文庫が山梨県に引き渡されるときのシーンで、大事な娘を嫁に送り出す気持ちだと功刀亀内が涙しています。
第3章 郷土史をのこした人々
山梨県立博物館には、「甲州文庫」をはじめとして現在20万点を超える資料が収蔵されているといいます。資料の散逸を防ぎ、守り伝えた先人たちの努力によるものです。
歴史資料をのこそうとする機運を高めた「山梨県志編纂会」の若尾謹之助、「甲州文庫」を蒐集した功刀亀内、戦後郷土史でも活躍した山梨日日新聞社社長の野口二郎を取り挙げます。
3-1 若尾謹之助と山梨県志編纂会
郷土の古い歴史資料をのこそうとする機運が高まったのは、大正時代に甲州財閥の若尾家の若尾謹之助を中心に展開した「山梨県志編纂会」の事業の影響でした。
若尾謹之助(1882年~1933年、明治15年~昭和8年)が中心となり立ち上げた「山梨県志編纂会」は大正4(1915)年11月に発足しました。関東大震災による火災に遭い、その後、1927年(昭和2年)の大恐慌により若尾家が没落したため中止となりました。若尾謹之助は若尾逸平を祖とする若尾財閥の3代目でした。
◇「山梨県志編纂会趣旨他」大木家文書 1915年(大正4年)
◇「山梨県志資料目録」 甲州文庫・若尾資料1924年(大正13年)
これらは、山梨県志編纂会の資料収集に関するもので、甲斐国志に続く県史を編纂しようとした姿が伺えます。
3-2 功刀亀内と甲州文庫
「山梨県志編纂会」の意志をいわば継いだのが、甲州文庫の功刀亀内でした。亀内が郷土資料の蒐集を始めたきっかけは、大正8年に「山梨県誌編纂会」を訪問したことでした。そこで、郷土史家の土屋夏堂(1857年~1936年、安政5年~昭和11年)から貴重な文献や史料も、蒐集する者がいなければ、捨てられてしまうこと聞いたのです。
それなら自分がやってみようと一大決心したのです。まずは、再生紙とされる古紙を漁っては貴重な資料を発掘しました。古紙以外にも古文書を探しました。どうしても手にはいらないものは、借用し、自ら書き写したといいます。
功刀亀内(1889年~1957年、明治22年~昭和32年)は豊村(現南アルプス市)の養蚕業の家に生まれました。亀内はハイカラな新しもの好きで甲府で最初にオートバイを買い、県内や信州まで繭の買い付けに乗り回していたと後年語っています。
「甲州文庫」は前述とおり1951年(昭和26年)に、山梨県立図書館に寄贈され、現在は、2005年(平成17年)に開館した山梨県立博物館が所蔵しています。
甲州文庫に関する展示資料が続きます。
◇「甲州文庫扁額」 甲州文庫、1930年(昭和5年)があります。
甲州文庫扁額ですが、明治から昭和前期の洋画家・書家で知られる中村不折の書によるものです。亀内は資料に埋もれた自室にこれを掲げ、大事にしていたといいます。
山梨デジタルアーカイブ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000021-YMNS0121799
◇「甲州文庫標札」 南アルプス市立図書館蔵、1944年(昭和19年)
こちらは小さい表札です。本土空襲に備え「甲州文庫」を東京から生家のある南アルプス市に疎開させたときに作らせて掲げたものです。
◇「甲州文庫関係記事集帖」甲州文庫、昭和時代
昭和初期から甲州文庫の県移管後にかけての、甲州文庫と亀内に関する関係記事や写真、印刷物などのスクラップ帳です。
収集活動にいたる契機となった山梨県志編纂会の土屋夏堂との出会い、甲州文庫が東京から山梨へ疎開したことを報じる記事、甲府市制60周年記念郷土展の写真、亀内逝去時(昭和32年)の会葬礼状などが収録されています。
◇「喜寿録」甲州文庫、1931年(昭和6年)は、「山梨県志編纂会」の編纂員を務めた土屋夏堂の喜寿(77歳)の祝いに寄せられた書画や詩歌を収録して刊行された記念誌です。
◇「甲州文庫記」甲州文庫、1925年(大正14年)は、山梨女学校、徽典館の教諭を歴任した桜井義令の作で、功刀亀内の業績を称えています。
◇「甲州人材論 第2編」甲州文庫、1930年(昭和5年)
この本の中で川手秀一は功刀亀内について金銭のように古文書を欲しがる人物「変わり者」と評しています。
◇「甲州文庫図書目録」甲州文庫、1943年(昭和18年)
こちらは、南アルプス市に疎開させた時期に制作した甲州文庫の目録です。整理の関係で作成した可能性が高いといいます。
◇『甲州文庫を語る』放送記録、甲州文庫、1950年(昭和25年)
NHK甲府のラジオ放送に出演したときの内容を文字に起こしたものです。功刀亀内と郷土史家佐藤森三が甲州文庫につき対談した記録です。
57「写真貼込帖 2」甲州文庫、明治~大正時代
前述した諏訪へ遠乗りに向かう中に功刀亀内の姿が写る写真を収録している写真帖です。
◇小説「練絲痕」(『公私月報』第47号付録)、甲州文庫1934年(昭和9年)
韮崎出身の実業家小林一三の小説を付録の冊子にしたものです。小林一三はもともとは作家志望の文学青年でした。慶應義塾在学中に小説を執筆していて山梨日日新聞に連載9回(明治23年4月15日から25日まで)で掲載されました。一三の小説は「練絲痕」といい、後年、一三は、この小説の載った紙面を探してもらうよう交流のあった宮武外骨(1867年~1955年、慶応3年~昭和30年)に依頼しています。「練絲痕」は甲州文庫から発見されたようで、新聞紙面から一冊にまとめ、外骨の編集している『公私月報』第47号の附録として、昭和9年8月に発行されました。
3_3 野口二郎
続いて、野口二郎(1900年~1976年、明治33年~昭和51年)に関する資料です。野口は山梨日日新聞社の社長であるとともに、郷土史家でした。朝出勤前には必ず県立図書館の郷土資料室へ立ち寄っていたといいます。
野口は、甲府駅北口にある藤村記念館の擬洋風建築の保存運動や重要無形民俗文化財となっている甲府市の天津司の舞の保存に努めたことで知られます。また「甲州夏草道中」というイベントを行い郷土発見の機運を高めのちの「山梨郷土研究会」の発足へとつなげました。
画像は用意できませんでしたが、甲府市小瀬地区に伝わる天津司の舞の保存に関わった書簡があります。
◇「小田内通久書簡 天津司の舞保存会」1936年(昭和11年)
天津司の舞は日本最古の人形芝居とも言われる伝統芸能で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。野口は、一度中断されていたものを復活に尽力しています。
こちらも画像は用意できませんでしたが、「甲州夏草道中」に関する資料があります。
◇「甲州夏草道中記」個人蔵、1961年(昭和36年)
◇「夏草道中切手」山梨文化会館、昭和時代
甲州夏草道中は記録で、切手は手形の形をした参加証です。
「甲州夏草道中」は野口が理事長を務める野外活動団体の共催で地域を歩きながら歴史に触れるイベントでした。第1回(昭和11年)~第18回(昭和35年)まで行われました。このイベントにより笹子の「追分人形芝居」、韮崎の願成寺の阿弥陀三尊の発見などの成果がありました。そして「甲州夏草道中」を行ったことが、郷土史研究の機運を高め、山梨郷土会(後の山梨郷土研究会)の発足のきっかけになりました。山梨郷土研究会は筆者も末席に預かっております。
また、野口が1951年(昭和26年)の「甲州文庫」の県への移管にも関わっていることが分かる書簡が残されています。
◇「甲州文庫移管関係綴」甲州文庫、1951年(昭和26年)
移管に関する書類をまとめたものです。
◇「功刀亀内差出野口二郎宛書簡」山梨文化会館、1951年(昭和26年)
書簡の中で野口は甲州文庫の移管について感謝を述べています。
◇「甲州文庫県内移管に関するお願い」山梨文化会館、1951年(昭和26年)
甲州文庫の移管を県に要請した文書です。
最後の資料は、野口二郎の郷土史研究を残すことの意義を訴えている原稿です。
◇野口二郎「後代に伝える」原稿、山梨文化会館 1958年(昭和33年)
「後代に伝える」は、西山ダム建設によりダム湖に沈む西山村の総合学術調査の報告書に団長の野口二郎が寄せたものです。
おわりに
本展が、甲州文庫の展覧会の再現という趣向をとっていたこともあり、本稿もひたすら資料の紹介になってしまいました。ご容赦ください。
山梨の郷土資料は山梨県立博物館、山梨県立図書館にデジタルアーカイブがあり、Web上で閲覧や検索可能となっています。関心がある方はご覧ください。登録不要で利用できます。
最後は、博物館の有料エリアの入場カウンタで折り紙の「ヨゲンノトリ」と「キの神」です。出来栄えの良さに訊ねたところスタッフの方が作ったものだといいます。
参考資料
山梨県立博物館「シンボル展 郷土史をのこした人々 甲州文庫物語」リーフレット、2024
参考URL
疫病退散! ヨゲンノトリコーナー: 山梨県立博物館 (2024.7.2閲覧)
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3rd_news/3rd_news_news200410.html