【富士見町歴史民俗資料館】モノの「記憶」を伝えたい、町民視点による企画展示
はじめに
井戸尻考古館に隣接している富士見町歴史民俗資料館ですが、不定期で企画展を開催します。企画展「百年後に伝えたい富士見のモノ・こと・話」(2022.12.15~2023.3.31)は富士見町民に呼びかけて寄せられた内容から構成するという試みの展示であり、そこには館長と学芸員が共有する民俗資料への思いがありました。
富士見町歴史民俗資料館の詳細については拙稿をご覧ください。
「記憶」を残したい
資料館の館長も兼ねる井戸尻考古館のK館長には、以前民俗資料を残す意義について次のように伺っております。
「古老たちが生きている間に聞いておかなければ、分からなくなってしまうことも多い。近年亡くなる方が増え、ますますその危機を感じる。保存しようと努力しないと民俗資料は残せない。(要旨)」
館長には再びお話しを伺うことができました。内容はさらに濃く具体的でした。
筆者の理解でまとめると次のようになります。
「モノ」としての民俗資料は収蔵あるいは展示することで残せます。また民俗資料がいつどこで使われていたか、どういう経緯があるのか、いわば「歴史」の部分も記録できます。なくなっていくのは「記憶」なのです。
ここでいう「記憶」とは、道具でいえば使い方はもちろん、道具が家庭の中でどう扱われてきた、どんな思いで扱ってきたかということです。
これまでも館長は「民俗資料を展示しているのだが、物としてだけでなく、その道具を使った人の思い(生活の喜び、悲しみ、苦労など)を残していきたい。(要旨)」とおっしゃっていました。
さらに、祭りや年中行事も人々はどう感じていたか、どう行動していたか記憶です。災害もこれに相当するでしょう。記憶とは簡単に言うとエピソードといえるでしょう。
そのした、モノ(民俗資料)、歴史(経緯や情報)、記憶(エピソード)の3点を合わせて残したいというのです。
また、時は常に進んでいます、現在は一瞬で過去になります。現在のモノや記憶も残していくことが必要です。
今回のパンデミックでいえば、まだ初期の頃に得体の知れなかった感染症に町民がどう向き合ったか残したいと考えたそうです。商工会などに声かけして、商店の張り紙やポップはないかと尋ねたといいます。
新聞やマスメディアの記事や記録は必ずどこかに残っています。それより手作りや1点しかないものが大事なのです。
「縄文の語り部」として活躍の多い館長ですが、普段聞けない資料館への情熱とともに、貴重な視点をいただきました。
百年後に伝えたい富士見のモノ・こと・話
企画展「百年後に伝えたい富士見のモノ・こと・話」を担当した井戸尻考古館のH学芸員にもお話を伺いました。
通常の展示は学芸員からの視点で作るのですが、この企画は一般の町民から寄せられた内容つまり、町民の視点から展示を構成しているところに特徴があるといいます。いわば町民発による、残したいモノと記憶ということになります。
いま残しておきたいもの
前置きが長くなりました。企画展スペースは広くはありませんが、物があったり、パネルであったりと内容はそれぞれですが「いま残しておきたいもの」と「未来に残していきたいもの」を分けずに展示しているのが特徴です。
「いま残しておきたいもの」を簡単に紹介します。例えば地域の祭りや行事、道具の思い出などになっています。
・小六のお神楽
町内小六区で180年前の疫病の広まりを機に始まり、現在も受け継がれている獅子舞です。町の無形文化財に指定されています。
・子供の一歳のお祝い
成長を願い、重箱にあんころ餅を入れて子供に背負わせて、箕に乗せてふるう風習だそうです。
・イナゴ取り
夜イナゴを取って、甘辛く佃煮にした思い出のお話。農薬が散布されるようになるとイナゴはいなくなったといいます。
・裂き織り
裂き織りとは、横糸の代わりに裂いた古着物や布をひも状にして織り込む機織りのこと。富士見町では各家に高機があり明治から昭和にかけて農閑期の裂き織りが盛んでした。
平成に入り「紅蓮・織りの会」が発足し、昔からの技法を後世に伝える活動をしています。
・足踏みオルガン
みんなでオルガンの音に合わせ歌を歌った思い出のお話。先生だけでなく子どもたちも自由に弾くことができたそうです。
・円見山村の馬頭観音
県境に近い円見山地区の辻にある馬頭観音の石仏のお話。農耕馬がいた昭和20年代中頃までは子馬が生まれるとお参りしていたそうです。
・僕らの田舎タクシーは行く
当時の新聞にも載ったエピソード。
昭和28年の境小学校で、若い浜先生が手を焼いた5年1組の男の子たち。足を骨折しお休みしていた浜先生が復帰する前日のこと、リヤカーで信濃境駅に迎えに行き浜先生が寝泊まりすることになる宿直室まで送っていったというお話。
・ゼンマイ式の柱時計
時計の部品が貴重な時代、ゼンマイを巻くのは父親の仕事。子どもは巻きすぎて壊してしまうといけないのでやらせてもらえません。それでも内緒で巻いたことがあったというお話。
・雨乞いの神事
昭和15年の水不足で雨乞いをしたお話。
その雨乞いとは、石仏の木の祠を叩き大声で繰り返しはやし立てるのです。さらに石仏を引きずり回し火あぶりにします。雨乞いとは神を怒らせることだったのです。
雨乞いの様子を伝える新聞も付してあります。この手荒な雨乞いは富士見町でもこの地区のみに見られるものだといいます。
・スケートのこと
中学になってケート靴を買ってもらえるまでは、下駄スケートを履いたお話。手がかじかんで紐がしっかりと縛れずにぐらぐらして転んでばかりといいます。田んぼのリンクや、氷の出荷施設の跡にできたリンクなどがあったそうで、さすがスケートの活発な地域です。
・桑の紙のランドセル
戦後の物のない時代、桑の皮をはいで作った紙で作られたランドセルが配給されたお話。まるで目の粗い麻袋のようだったとイラストつきで解説されています。養蚕の盛んな地域では桑の木から布を作っていたことは多々あるようです。
未来に残していきたいもの
次は「未来に残していきたいもの」を簡単に紹介します。
・富士見町史(下巻)の編纂
町制50周年を記念して平成17年に発刊された町史下巻(上巻は平成3年刊行)のお話。
執筆者はすべて町内か諏訪郡内の方。読みやすさを考慮し、ひとつひとつの節の執筆は分担を時間軸で分けて分野の垣根なく複数人で担当したといいます。
郷土への熱意と読み手側への思いで作られた町史はずっすり重いです。
・「森のなかの世界一小さな童画館」伏見東子さんの物語と岨菜童画館
戦後、看護師として働いていた伏見東子さんは、高原に住むという妖精の話を聞かせたり、童画を描いていました。平成元年、コツコツ貯めたお金で古い蔵を改装し小さな童画館を作りました。しかし病に倒れ数年後永眠しました。
・煎餅型のこと
H学芸員発のお話。戦時下の金属供出によって1つも残っていないと思われていた「富士見煎餅」の型が役場から発見されました。地元紙で呼びかけて情報を得ると、戦後農業の傍ら煎餅を焼いていたご夫婦のものとのこと。それでも現存最古のもので、煎餅の型ひとつとってもエピソードがあります。
記憶を大切にしたいという館の姿勢は解説文でよくわかります。
・境小学校の押立相撲大会
平成15年よりに始まった押立相撲大会、学校の裏山の盛り上がった場所が藩主に相撲を奉納した土俵だったことがきっけで相撲大会が始まったとのこと。
・先達の秋の景観
秋の棚田は稲穂とそばの花はまるで金銀の市松模様のよう。県道17号の脇には赤い彼岸花が咲き、ドライバーの目を楽しませているそうです。
・井戸尻考古館
東京から富士見町に移り住んだ方のお話。考古館を見学して、1万年を通した生活を実感。縄文人が「あなたと同じように生きていたのだ」と語りかけてくると。いにしえと今の橋渡しの考古館が大切に思えるといいます。
・入笠山のすずらん
100万本の日本すずらんが自生する入笠山。それを守ってきた先輩方の活動と今でも続けられている町民参加の自然保護活動。今後もすずらんを町の魅力として伝えていきたいというお話。
展示は以上です。『富士見町の指定文化財』(富士見町教育委員会、2021)という本も資料館で手にとれ販売もしているのですが、そういった内容とは一味違う地元の資料の紹介でした。
生活を彩る小物たち
ミニ展示もあります。エントランス前のケースでは、「小物語~小物が語る小さな物語~」の第2弾「生活を彩る小物たち」を展示しておりました。櫛、根付け、口蓋など身に着けるものを集めて解説とともに展示しています。
以前の写真になりますが、第1弾では養蚕の道具でした。パネルには大正から昭和初期の養蚕に関する知識が紹介されていました。
新年の風景
年が明けて、すぐの訪問でしたのでミニ門松がお出迎えしてくれました。ほかにもお供え餅があちこちにありました。
おわりに
今回の企画展を通じて、縄文だけではない考古館(=文化財係)の活動をもっと宣伝してもいいのではと思いましたが、町内を中心に宣伝はややおとなしめです。まずは町民のなかで共有しようというのでしょう。今後さらに民俗資料を残す動きが広がることに期待が広がります。
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