【井戸尻考古館】没後50年企画「井戸尻と藤森栄一」を見に行く
はじめに
富士見町の井戸尻考古館に影響を与えた人物として藤森栄一の名が挙げられます。本年(2023年)は藤森栄一が亡くなって50年の節目です。
井戸尻考古館では、藤森の命日である12月19日よりミニ企画展示「井戸尻と藤森栄一-その言葉、そのまなざし-」(2023.12.19~2024.3.20)を開催しています。
在野の考古学者であった藤森の残した言葉や研究から人物像と井戸尻の研究に与えた影響を紹介する展示です。
ところで、藤森のおひざもとである諏訪市博物館では企画展「没後50年 考古学者 藤森栄一と諏訪の考古学」(2023.11.18~12.24)が行われていましたが、会期がやや短く、見学の機会を逃してしまいました。全く残念なことでした。
藤森栄一と「おらあとうの考古学」
藤森栄一(1911年~1973年、明治44年~昭和48年)は諏訪の在野の考古学者です。今日の「おとあとうの考古学」といわれる井戸尻考古館のきっかけを作ったと人物であり、曽利遺跡の発掘や報告書『井戸尻』の編纂など、井戸尻考古館の黎明期に大きな影響を与えた人物です。
井戸尻遺跡群は境地区(旧境村)の農家の有志や近隣高校の地歴部の生徒らにより発掘調査されたという特色を持っていますが、それは、昭和31年の境史学会の発会式においておよそ400人の聴衆の前で行った藤森の記念講演がきっかけとなったものです。「おらあとうの村の歴史はおらあとうの手で明らかにする」という機運が高まり、昭和33年からの井戸尻遺跡の発掘調査と昭和34年の井戸尻遺跡保存会の発足へと繋がります。
「おらあとうの考古学」に関しては、拙稿を参照ください。
井戸尻と藤森栄一 -その言葉、そのまなざし-
本展は、土器や石器など、出土品を展示するこれまでの企画展とはやや趣が異なります。藤森の残した言葉や著述から藤森の人物や業績を紹介するという、文学的要素の大きい、展示スタイルをとっています。また、秘蔵の品も登場しています。
本展示の担当はH学芸員とのこと。なるほど先輩ことS学芸員やK館長とは一味違う展示になっています。
水煙土器と『井戸尻』
企画展示コーナーの独立ケースにあるものは、曽利遺跡の水煙渦文深鉢(長野県宝)と『井戸尻』中央公論美術出版です。
この『井戸尻』は1965年(昭和40年)に富士見町町制施行10周年の記念事業の一環として刊行されたものです。昭和32年~38年に行われた井戸尻遺跡群(井戸尻遺跡や曽利遺跡)の発掘成果の報告であり、井戸尻遺跡保存会の「おとあとうの考古学」の当初の目的の到達点ともいえるものでした。遺跡調査に携わったメンバーは報告書の刊行の決定に感激し精一杯取り組んだといいます。
藤森はその中で曽利遺跡の発掘の指導を行っています。『井戸尻』の編集の指導も藤森であり、自身の研究の集大成という側面もあったといいます。
表紙には曽利遺跡から出土した水煙渦文深鉢が配されています。新潟の火焔型土器に対して渦巻状の把手を持つ土器を水煙土器と名付けたのは、この土器に魅了された藤森でした。
藤森は「井戸尻文化」と呼ぶこの八ヶ岳西南麓の縄文時代の姿を総合的に解き明かそうとしていたのです。
藤森栄一の生涯とまなざし
まず、片側の展示ケースでは藤森栄一の生涯の説明と著作が展示されています。
まず、藤森の生涯について展示パネルから紹介いたします。内容については、先だって行われていた諏訪市博物館「藤森栄一展」の解説に準拠したものになっていました。
展示には藤森の最初の著作『かもしかみち』葦牙書房の初版本(1946年発行)があります。考古学的随筆として多くの読者に影響を与え、考古学の道へと誘うものとなりました。再版本には「この本は私の原型だった」とあるそうで、藤森の根幹を示す記念碑的作品といいます。
H学芸員によれば、初版の中でもごく一部にしかない背表紙に誤植がある貴重な版だといいます。確かに、よく見るとついくすっと笑ってしまう誤植がありました。ぜひ、ご自分の目でお確かめください。考古館の公式ツイッターでも紹介されていたので記憶にある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
藤森は16歳で論文を書き始めて以降、700本を超える著作物を残したといいます。研究テーマも多岐に渡っています。
藤森は八ヶ岳西南麓、とくに井戸尻遺跡群を研究フィールドとして縄文人の生活を文化としてとらえ解明しようと取り組んだといいます。そうした取り組みから「縄文農耕論」「井戸尻編年」といった研究成果を生むのです。
展示には藤森の著作が並びます。こちらは藤森が亡くなった翌年に井戸尻考古館が開館します。開館の記念として藤森の妻みち子から26冊の蔵書が寄贈されています。
開館式の様子を報じた新聞の紙面にも「みち子未亡人」からの本の著作の寄贈が紹介されています。
井戸尻と藤森栄一
1956年(昭和31年)「境史学会」の発会式の記念講演会がその後の井戸尻保存会の発足へつながることは前述しましたが、藤森は聴衆に「そらそこの、公民館の下の丘の地下にも君たちの祖先の縄文人が掘り起こしてくれるのを待っているんだ」とたいへん情緒的に語りかけたといいます。
また、藤森は井戸尻遺跡群全般の発掘に携わったようにとらえられがちですが、藤森が発掘の中心となったものは曽利遺跡の第一次発掘調査(昭和35年)と第二次発掘調査(昭和36年)でした。
写真は藤森と曽利遺跡の様子ですが、まだ考古館は建っていません。周囲に建物もなくまったく現在のどの場所か想像もつきません。左から5人目の案内をしている男性が藤森栄一です。伺ったところ、第二次発掘調査(昭和36年)の位置だそうで考古館と裏の収蔵庫の中間あたりになるそうです。
藤森栄一と武藤雄六
井戸尻考古館の初代館長となる武藤雄六(1930年~2022年、昭和5年~令和4年)にも藤森は多大な影響を与えており現在の井戸尻考古館の持つ独特の気風についても藤森の影響を感じないわけにはいきません。武藤は藤森の弟子と言われていますが、共同研究者でもありました。
武藤雄六と藤森の出会いは昭和28年頃、藤森の経営する古書店ででした。当時農協職員だった武藤はずっと鉱物の本を読みふけっていたといいます。「キミ、鉱物学が好き?」さらに続けます。「考古学ってのはもっと面白いよ。」と。この一言が武藤を考古の道へ導いたのです。
写真の土器を持っているのが、昭和30年の武藤雄六です。
展示にある封筒は藤森が武藤雄六に宛てたものです。緑色のマジックで「至急」「武藤雄六君」とあります。何を伝えたかったのか今となっては知るすべはありません。
諏訪電信局(現在のNTT)に武藤雄六の親族の女性が務めており、郵便よりも早くするために手渡しを考え「武藤譲」へ預けに来たとのこと。
切手のある速達封筒のため勘違いしやすいのですが、これは藤森宛の郵便の封筒を再利用しているものです。
武藤雄六に宛てた書籍『藤森栄一の日記』学生社1976です。中には「研究にお疲れになったらどうぞ 藤森栄一 みち子」と添えられています。『藤森栄一の日記』は藤森の死後妻みち子が日記をまとめたものです。
こちらは『井戸尻遺跡』中央公論美術出1965、です。藤森栄一により『井戸尻』の姉妹本として出版されたものです。40頁の小冊子ですが、出版社の校訂が厳しく藤森はたいへん苦労したといいます。
見開きには「遥けきかつての昔 人ありて かの人は ただ ひたすらに生きたりき 藤森」と直筆の一文が添えられています。
常設展示にはパン状炭化物がありますが、1960年(昭和35年)の曽利遺跡の折りパン状炭化物の発見された様子が紹介されています。炭化物の発見に際し、武藤は藤森の指示で石膏を買ってきてひとつ残らず拾い、復元を指示されるのです。武藤が3年かけて復元させたものが展示されているパン状炭化物です。
また、1963年(昭和38年)、藤森と武藤によって「井戸尻編年」が示されるのですが、それに至る経緯の解説もあります。
藤森栄一以降
藤森は心筋梗塞のため1973年(昭和48年)に亡くなります。井戸尻考古館の開館はその一年後の1974年(昭和49年)です。
展示には『藤森栄一の日記』学生社1976があります。藤森の死後妻みち子が日記をまとめたものです。武藤雄六に届けられた『藤森栄一の日記』の見開きには「研究にお疲れになったらどうぞ 藤森栄一 みち子」と添えられています。
井戸尻考古館の特徴として、「縄文農耕論」や「図像論」に取り組んできました。一見、藤森の研究を継承したように見えるのですが、藤森の継承ではありませんでした。武藤雄六や小林公明など歴代館長を中心にそれぞれの立場と方法論で研究を進めてきたのです。それは藤森の研究の否定であったり、逆に解明でもあったそうです。
しかし藤森が求め続けた縄文人の生活と文化の解明としては、井戸尻の研究としていまも続いているのです。
藤森栄一の言葉
常設展示にも藤森栄一の言葉が配置されています。
1枚目は、石器の展示にありました。「縄文農耕論」についてです。
藤森の「どうしても農耕があったと考えなければ理解がつかいない」という有名な内容です。
2枚目は蛇と蛙の図像の土器の展示の中にありました。「縄文図像論」についてです。
蛙を表すであろう三本指や蛇の文様について神話や民話を援用して解読しようとすることは否定しないという内容です。井戸尻の図像学と通じるところです。
そして、3枚目は長野県宝となった曽利遺跡4号住居址、5号住居址の土器の中にありました。「中期縄文文化」についてです。
藤森は縄文農耕論を主張しつつもそれに執着していませんでした。藤森の目指したものは縄文人が何を思い、どのように暮らしたのか、生活と文化の復元だったといいます。
井戸尻考古館は藤森の継承者ではない
井戸尻考古館は藤森栄一の研究を継承はしていないことは前述しましたが、そのあたりのことをK館長に伺うことができました。
藤森の著書に初代館長となる武藤雄六が登場します。そうしたことから藤森と武藤は師弟の間柄であると考えられがちですがが、武藤は「藤森先生はだめだ」と言っては平気でダメ出ししていたそうです。そのため見解の違いでたびたびぶつかりあいます。そうしたことから師弟ではなく共同研究者というのがふさわしいといいます。
また、武藤が藤森の訃報を聞いたのは、建設中の考古館の展示室の復元住居(現在のものは2代目)に載って作業をしていた時で、武藤はたいへんに驚いたといいます。武藤は3回「破門」されていますが、訃報に接したことで「破門」はいまだに解かれていないともいっていたそうです。
また、藤森は学者であったのに対して、武藤は根っからの百姓でした。武藤は百姓の直感で石器や土器を何に使ったと考えています。野良仕事をしていない藤森とは見方が異なるのです。その後の小林公明、樋口誠司といった館長たちもいわば百姓でした。
小林公明はとくに図像の解明として図像論を展開しますが、藤森の図像論とは全く異なっています。
かの有名な、半人半蛙文有孔鍔付土器(藤内遺跡)についても、藤森は種子などの貯蔵用であると考えましたが、井戸尻考古館では酒造の器と考えています。
藤森という先達がありながら、打ち壊して新たな真実に迫ろうとするのが井戸尻の研究者たちの気風だったようです。
現在の館長(4代目)も「おらあとうの考古館」として先人たちからの歴史を非常に大事にしております。しかし研究者としては先輩方と見解が異なる部分は多々あると、これはかつて聞いたことがあります。そういう、異なる意見も口に出して議論できるのが井戸尻の気風であり研究者、学芸員たちなのだと思います。
井戸尻考古館の建物はもとより、展示室の解説文には手書きが多く、古くから変わらないものが多いです。解説文が変わらないのは、それを超えるだけの研究がないということなのだそうです。
藤森の「諏訪考古学研究所」のケース
知る人ぞ知る、井戸尻考古館の書籍見本のガラスケースは、藤森が主催していた「諏訪考古学研究所」から譲り受けたものです。電話番号は市外局番以降が消してあります。藤森の経営する旅館「やまのや」の番号だったと思いますが、なぜ消されていたのかまでは分からないとのこと。
おまけ
藤森栄一については、アニメーション監督の宮崎駿氏がたいへん好んでいた人物です。映画「となりのトトロ」に登場するサツキとメイの父は藤森がモデルであることは知られています。藤森の著作『縄文の世界』を読んで目から鱗が半分落ちたと講演(井戸尻考古館編『甦る高原の縄文王国―井戸尻文化の世界性』言叢社、2004)でも語っています。また、宮崎氏が井戸尻考古館へも足を運ぶことはよく知られています。筆者もお見掛けしたことがあります。
NHKテレビ「プロフェッショナル仕事の流儀 ジブリと宮崎駿の2399日」(2023.12.16放送)でも井戸尻考古館の外でたばこを嗜みながら休むシーンがありました。
おわりに
暮れの井戸尻考古館訪問でした。これまでありそうで無かった藤森栄一の企画展示でした。藤森栄一は考古学者でありながら、文学的な人だとあらためて思いました。また、初代館長武藤雄六氏との関係も展示品や館長のお話から、深い信頼関係を感じるとともに、ライバル関係にも思えるようなたいへん興味深かいものでした。井戸尻遺跡保存会を知る人たちのほとんどが亡くなっていく現実の中で、井戸尻考古館はその先人の思いを受けて研究は続いているのだと感じさせられました。
2023年はこれで筆を置きたいと思います。
実はnote記事に起こせていない展示や見学の内容が複数残ってしまいました。2024年のnoteは積み残しも含めた再開になりそうです。
本年もお付き合いいただきありがとうございました。
参考文献
井戸尻考古館編『甦る高原の縄文王国―井戸尻文化の世界性』言叢社、2004