【山梨県立美術館】コレクション企画展「富岡鉄斎 鉄斎と文人書画の優品」を見に行く
はじめに
山梨県立美術館にて、コレクション企画展「-没後100年-富岡鉄斎 鉄斎と文人書画の優品」(2024.7.20~8.25)が開催されました。
「最後の文人画家」と称される富岡鉄斎の没後100年にあたり各地で展覧会が企画、開催されています。山梨県立美術館も多くの鉄斎作品を収蔵しており、本展は鉄斎と親交のあった「十一屋」野口家からの寄贈品を中心に構成されます。
すでに終了している展示ですが、よろしくお付き合いください。(note化が間に合わず積み残しております)
-没後100年-富岡鉄斎 鉄斎と文人書画の優品
山梨県立美術館では、例年夏の特別展があるのですが、何らかの事情により予定されていたものが来年に延期となりました。コレクション企画展「-没後100年-富岡鉄斎 鉄斎と文人書画の優品」(2024.7.20~8.25)はその代わりに用意された展示です。収蔵作品にて構成しているため「コレクション企画展」となりました。また、山梨ゆかりの近代南画も紹介する内容です。
出品作品72点のうち43点が鉄斎です。収蔵作品ということで撮影可能になっております。
富岡鉄斎と「十一屋」野口家
富岡鉄斎(1837年~1924年、天保7年~大正13年)は、明治・大正期に活躍した文人画家(南画家)です。山梨へは明治8年と28年の2度訪れており、親交のあった「十一屋」の野口家に滞在し多くの作品を残しています。これらの作品は野口家より山梨県立美術館へ寄贈、寄託されています。
「十一屋」野口家は現在の滋賀県東近江市に本邸を置く近江商人でした。江戸時代中期より甲府で酒と醤油の醸造業を起こして繁栄しました。鉄斎とは4代目当主正忠(号、柿邨、1822年~1893年、文政5年~明治26年)を中心に親交がありました。野口家に残された鉄斎の作品は掛軸、額、扇子、袱紗、盃の絵付けなどです。
また、正忠の息子正章(1849年~1922年、嘉永2年~大正11年)は、明治初期に甲府でビール醸造に着手した人物として知られています。正章に嫁いだ野口小蘋は近代を代表する女性南画家でその娘小蕙も南画家でした。野口家は多くの南画を蒐集し資金面からも南画家たちを支えていました。
はじめに甲府で酒造を始めた場所は甲府市柳町でした。「十一屋」の酒蔵跡には甲府ワシントンホテルプラザが建っています。
大正13年に甲府市横沢町へ移転し昭和の終わり頃までここで酒造を営んでいました。ケーヨーデイツーの入る建物とその前の道路が十一屋の酒造所跡であり、隣にある「株式会社十一屋」小さな事務所に名が残ります。
十一屋については「峡陽文庫」に詳しいです。
第1章 富岡鉄斎の書画
第1章はすべて富岡鉄斎の作品で構成されています。山梨県立美術館には60点余りにのぼる鉄斎の書画が収蔵されており、それらの多くは野口家コレクションで寄贈、寄託されたものです。
冒頭に紹介されるのは《釈孔老三酸図》で釈迦、孔子、老子が甕の酢をなめて顔をしかめる逸話を描いたといいます。
続いて、野口家との関わりを示す作品が続きます。
鉄斎と野口家の関係は、4代目当主正忠(柿邨)との親交に始まり、正忠没後も続きました。
《福禄酒》は、十一屋の日本酒の銘柄「福禄酒」を鉄斎がしたためた墨書です。
《酒興図》は酒を酌み交わす二人の人物が描かれ、鉄斎と正忠の親交の象徴的作品といいます。
《売酒翁図》は野口正忠の古稀を祝って描いた作品です。
こちらは、絵付の盃と受け皿ですが、こちらも正忠の古稀を祝うものでミラーに写る底の部分に正忠への為書きが記されています。
こちらの《牧童図》は、正忠の古稀と同じ時期に描かれた作品です。
野口家との交流は正忠没後も続きました。《観音図》は正忠の十三回忌に野口家に贈られた作品です。
《世家積譱図》は野口家の幸いを願い描いた作品です。「世家」とは一定の地位や財産を世襲している家柄のこと、「積譱」(積善)とは善い行いをすれば子孫が幸福が訪れるという「易経」の言葉です。
向かい側にも作品が続きます。90歳近くまで生きた鉄斎の画業のうち、野口家には30歳代から50歳代の作品が多く残され、それらからは意気揚々と勤しんだ壮年期の画業を垣間見ることができるといいます。
こちらは袱紗ですが、近江の野口の本邸を描いたもので古稀の祝賀が近江で4月に開かれました。鉄斎も出席していますが、翌5月にも訪れて描いたのがこの袱紗だといいます。
1875年(明治8年)、野口家に滞在し初めて富士登山をしています。富士登山は生涯で一度だったといいますが、後に富士山に関する作品を数多く残すきっけかとなりました。
《登嶽巻》は富士登山の道中や頂上の様子を描いた絵巻です。
《富士山巓麓略図》は本展のメインビジュアルにもなっている作品です。富士登山の時の感動が手に取るように伝わる秀作で、かつ最も早い鉄斎の富士山図として重要な意味を持つといいます。
続いて《青緑夏景山水図》は鉄斎初期の33才の時の作品です。
《青緑山水図》は40代の時の作品で晩年と初期では描く技法が異なるといいます。
《天保九如図》は60歳の作品になります。
さらに作品は続きます。こちらは人物図です。
《遯世无悶図》の「遯世无悶」は易経の言葉で、世間から逃れ隠れても憂うことはないという意味だといいます。
《牧童図》は5頭の牛に子どもたちがついていて、これは自己の牛を探すことで悟りの道程を表した禅画「十牛図」からの着想といいます。
さらに鉄斎の人物画作品が続きます。
さらに人物画と《紅蓮花図》など、作品が続きます。
続いて隣の部屋は鉄斎の描いた扇面の展示です。
《五岳眞形図》は道教の護符を描いたものでそれぞれが人の生死を司るといいます。
続いて額装された扇面です。鮎、茶豆、鰻を描いています。
覗きケースの中には、13本の扇のコレクションを見ることができます。
第2章 文人書画の名品
第2章は明治大正期の南画家たちの作品を収蔵品より紹介しています。
高芙蓉、野口小蘋、中丸精十郎(金峰)、三枝雲岱など、山梨ゆかりある南画家の作品のほか、野口家から寄贈、寄託を受けた与謝蕪村や谷文晁、野口家と親交のあった日根対山など著名な文人画家(南画家)の作品です。
与謝蕪村(1716年~1783年、享保元年~天明3年)の屏風です。野口家コレクションによるものです。
高芙蓉(1722年~1784年、享保7年~天名4年)は、甲斐の医者の家に生まれました。書画のほか篆刻により印聖と呼ばれました。
谷文晁(1763年~1840年、宝暦13年~天保11年)の作品です。こちらも野口家のコレクションです。
椿椿山(1801年~1854年、享和元年~嘉永7年)の作品は、水墨画に一輪の蓮の花です。椿山は花鳥図や蓮をよく描いたといいます。
野呂介石(1747年~1828年、延享4年~文政11年)《山水図》、野呂介石の特徴は温和な山水画だといいます。
岡田米山人(1744年~1820年、延享元年~文政3年)独学により独創的な山水画様式を確立したといいます。
岡田半江(1782年~1846年、天明2年~弘化3年)は米山人の子です。
田能村竹田(1777年~1835年、安永6年~天保6年)は桂華こと金木犀を描いた作品です。
山本梅逸(1783年~1856年、天明3年~安政3年)
中林竹洞(1776年~1853年、安永5年~嘉永6年)
山本梅逸は中林竹洞ともに上京し活躍した名古屋の南画家として知られています。
日根対山(1811年~1869年、文化8年~明治2年)です。十一屋と親交があるとともに門下には山梨ゆかりの画家がいます。
中西耕石(1809年~1884年、文化4年~明治17年)は、日根対山と並ぶ京都南画会の双璧と称されるといいます。
続いて、日根対山に師事した三枝雲岱などの作品です。
小室翠雲(1878年~1945年、明治7年~昭和20年)は近代南画界の重鎮。
三枝雲岱(1811年~1901年、文化8年~明治34年)は北杜市明野町の出身、山梨を代表する南画家の一人です。
日根対山に師事した画家には、野口正章に嫁いだ野口小蘋(1847年~1917年、弘化4年~大正6年)がいます。
書が続きます。
野口家に伝わる伊藤博文(1841年~1909年、天保12年~明治42年)の筆による《七律詩》です。
頼山陽(1781年~1832年、安永9年~天保3年)の書などこちらも野口家のコレクションです。
最後の展示室は屏風と襖絵になります。日根対山、三枝雲岱、そしてこの二人を師事した中丸精十郎の作品です。
日根対山《一品當朝図襖》は、滋賀県の野口家の本邸の広間を飾る襖です。慶事の時のみ出され通常の襖と交換され使用されました。
こちらも日根対山の襖絵です。
三枝雲岱の屏風絵です。
中丸精十郎(金峰、1840~1895年、天保11年~明治28年)は甲府市の生まれの画家です。三枝雲岱と日根対山に南画を学びました。その後洋画に転身しています。こちらは南画時代の屏風です。
おわりに
収蔵、寄託されている鉄斎作品を一堂に見ることのできる展示でした。各地に残る鉄斎の足跡のほんの一部でしょうが、山梨、とくに野口家との関わりを知る内容でした。
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