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【井戸尻考古館】建館50周年「井戸尻考古館ができるまで」を見に行く

はじめに

 富士見町の井戸尻考古館がこの地に建設され50周年を迎えました。
 井戸尻考古館では、建館50周年記念ミニ企画展示「井戸尻考古館ができるまで」(2024.4.30~6.30)を開催しています。
 井戸尻考古館建設に伴う曽利遺跡の発掘調査(第3次~第5次)について当時の写真、資料、発掘された遺物を紹介する展示となっています。
 有名な土器たちは登場しますが、今回は発掘調査の様子にスポットを当てる少し趣の異なる展示になっています。

新緑の考古館、ここは曽利遺跡の上

建館50年

 井戸尻考古館では「建館50年」といっています。「開館50年」ではありません。
 井戸尻考古館の歴史は古く、旧井戸尻考古館は、現在地より北に位置する富士見町役場境支所(現信濃境公民館)を間借りする形で1959年(昭和34年)に開館しました。
 その翌年(昭和35年)から曽利遺跡の発掘調査(第1次、第2次)が行われています。大量の遺物が出土して考古館が手狭なったこと、また、1970年(昭和45年)に井戸尻遺跡の復元住居を焼失するという事件があり、防火上の観点などから、収蔵庫及び考古館の建設が進められました。考古館の完成式典が行われたのが1974年(昭和49年)4月30日でした。翌5月1日から一般公開されています。
 そのような経緯から「建館50年」といっています。

旧井戸尻考古館のあった信濃境公民館
出典 : 富士見町境区HP

井戸尻考古館ができるまで

 井戸尻考古館建設に伴う曽利遺跡の発掘調査は第3次から第5次調査となります。収蔵庫の建設、県道からの進入路道路の拡張、考古館の建設と続くー連の町事業による事前調査でした。

「井戸尻考古館ができるまで」
企画展示スペース、正面は当時の実測図や発掘日誌

曽利遺跡の発掘調査

 曽利遺跡の調査は2023年(令和5年)の第12次調査まで行われています。これまでの発掘ヵ所と曽利遺跡の分布図があります。
 考古館の建つ南部分に中期後葉の住居址(赤マーク)が多く集まっており、北上するにつれ中期中葉(青マーク)、中期初期(緑マーク)が分かります。つまり、年代が後になるほど北から南に住居を移動してきたと考えられます。

住居の年代と調査位置

 続いて考古館周辺の拡大です。第3次から第5次の調査位置が赤文字で示されています。
・第3次、収蔵庫の建設に伴う調査(中ほど右側の収蔵庫部分)
 (昭和44年3月18日~4月3日、4月20日~23日)
・第4時、進入路道路の拡張に伴う調査(左側の道路部分)
 (昭和47年11月21日~30日)
・第5次、井戸尻考古館建設に伴う調査(下側考古館の建物部分)
 (昭和48年3月11日~4月2日本調査、昭和48年4月3日~7月30日精密調査)
となっています。

第3次から第5次関連部分を拡大
収蔵庫建設地の第3次調査
完成した収蔵庫
収蔵庫の位置からして考古館の場所
拡張前の幅2メートルの道路
考古館建設地の第5次調査だろうか

 まず、大型の免震ケースに置かれた大型土器は考古館でもおなじみの蛙とみづちの両方の文様が描かれた土器、5次調査のものなので考古館の下から出土しています。長野県宝(県指定文化財)に指定されています。みづちは他の考古系博物館では抽象文と呼ばれますが、当時は「鰐」であると考えたようで報告書に記述があります。のちに図像学が進むと井戸尻考古館では想像上の水棲動物「みづち」と解釈されています。

蛙文・みづち文大土器(76号住居址、中期中葉、藤内Ⅱ式)

 続いて、隣のケースでは土器と発掘時の写真をセットで紹介しています。

ケースの概観

 第3次調査(収蔵庫)の土器として
 人面香炉形土器(29号住居址、中期中葉、曽利Ⅰ式)
 蛇文深鉢(35号住居址、中期中葉、藤内Ⅱ式)
があります。
 人面香炉土器は普段では撮影不可の土器となっていますが、本展では撮影可能となっています。両面が特徴的な土器ですが、展示スペースの都合で片面からのみ見られます。

左から、人面香炉形土器、蛇文深鉢

 人面香炉土器が出土した29号住居址の様子ですが、炉の近くからこの土器は見つかり、上部は復元のため、もともとは無いことがかわります。また、ベルトコンベアを使って土を運んでいたことなども分かります。

29号住居址と人面香炉形土器

 こちらは、35号住居址の様子です。

蛇文深鉢の出土時

 続いての土器は、
 第4次の蒸器形深鉢(48号住居址、中期中葉、井戸尻Ⅰ式)
 第5次の浅鉢(66号住居址、中期前葉、新道式)
です。

左より、蒸器形深鉢、浅鉢

 48号住居址と蒸器形深鉢の様子です。48号住居址からは井戸尻Ⅰ式の土器15個が出土しています。

48号住居址の蒸器形深鉢

 浅鉢は、66号住居址の中で据えられたようぽつんとが置かれた状態で出土しています。

66号住居址の浅鉢

発掘調査の成果

 向かいのケースは発掘調査とその後の研究による成果に関する展示です。
 「井戸尻編年の確立」「縄文農耕論の確立」「土器文様の解読」の3つの成果があったといいます。いまとなってはすべて井戸尻考古館の特色であり研究の柱です。

発掘調査の成果、展示の概観

 「井戸尻編年の確立」については、1965年(昭和40年)に井戸尻編年を提唱していますが、曽利遺跡などその後発掘の成果を踏まえ編年の修正を加えています。

最新の井戸尻編年 2023年4月

 「縄文農耕論の確立」については、これまで打製石斧ととらえていたものを耕起具、除草具、収穫具というように用途別に分類しました。横刃型石器とされていたものは収穫具として打製石包丁としたといいます。
 展示には、各遺構から出土した石器類をまとめて展示しています。

各遺構の石器類
『曽利 第三、四、五次発掘調査報告書』の石器に関する説明

 さらに常設展示でもおなじみの、石器に柄をつけた農耕具の復元品があります。

除草具の復元

 展示は、32号住居址(第3次)の神人交会文深鉢(中期中葉藤内Ⅰ式)です。32号住居址からは多くの土器が出土しておりその代表格ともいえる土器です。報告書でもこの土器を農耕と深い関わりのある土器であると読みいています。この頃から土器の文様に着目していたといい、土器製作者の意図に迫ろうという取り組みが井戸尻独自の「土器文様の解読」に発展していきました。

神人交会文深鉢(中期中葉、藤内Ⅰ式)

当時の図面、発掘日誌

 当時の図面。発掘日誌などの資料も今回は特別に展示されています。

図面、発掘日誌などの展示概観

 こちらの土器の実測図は、本展の展示で見た、蛙文・みづち文大土器(5次調査)、浅鉢(5次調査)、神人交会文深鉢(3次調査)の3点が描かれています。

土器の実測図

 続いて石器の実測図は、5次調査(考古館建設地)から出土したものです。

石器の実測図

次の井戸尻考古館へ

 2021年(令和3年)新館建設が発表され、2024年(令和6年)建設予定地が公表されました。新館予定地は現在の考古館に対して道を挟んで南西側になります、遺跡ではありません。本年度より基本設計に着手するといい、いよいよ新しい考古館の計画が本格的に動き出します。
 解説では、地域の宝を地元住民たちで守ったことについて、初代館長武藤雄六の言葉を報告書より紹介し、その精神を新館建設後も井戸尻考古館が受け継ぐことを宣言しています。

 今回の調査の最大の収穫は、数多い遺構、遺物の発見でも、編年上の問題点の解明でも何でもなくて、この調査に参加した農家の主婦の皆さんが、
埋蔵文化財の重要性に目覚めてくれたことであった。

『曽利 第三、四、五次発掘調査』
地元主婦らも手伝った発掘
調査の様子を写真で
調査の様子を写真で(続き)

守られた曽利遺跡

 遺跡の上に考古館を建てることなど現在では考えられないことです。本展ではそこまでは触れられておりませんが、調査報告書『曽利 第三、四、五次発掘調査』にはその経緯がしっかりとつづられているため紹介しておきます。
 昭和40年代、某大手酒造会社がワイン用のブドウ栽培のために曽利遺跡一体の土地を買い上げるという話が持ち上がります。
 会社側も遺跡があることは承知であり、むしろ遺跡に眠る土器に目をつけていたようです。そうすれば、美術館を持つこの会社は見事な縄文土器を手に入れることが出来るからです。
 地元ではこの土地の重要性の理解が広まっており、井戸尻遺跡保存会が町を動かし、町で土地を買収し考古館を建設することで遺跡を守りました。そのため建設に伴う発掘調査も最小の範囲とされました。
 そうした事情からあえて遺跡の上に考古館が建っているのです。

緊急募集、井戸尻考古館と私

 井戸尻考古館には昔の交換の様子が分かる写真が意外にも少なく、とくに開館当初の展示の様子が分かる写真も無いといいます。
 そこで、井戸尻考古館に関する写真にコメントを添えて送ってほしいとのこと。古い新しいは問いません。秋に計画している50年イベントで発表したいといいます。

緊急募集の呼びかけ

 たしかに発掘当時の写真を見ても周辺が変わっていて分かりません。遠くに写る甲斐駒ヶ岳と八ヶ岳の位置が頼りです。また、写真が少ないとのとおり、建設当初の考古館の姿が分からず現在との対比が難しくなっています。

おわりに

 井戸尻考古館建設に伴う曽利遺跡調査に焦点をあてた展示でした。「建館50年」の当日である4月30日には、トークイベントも行われました。そちらの様子は次回紹介します。

 50年以上にわたり井戸尻考古館は維持されてきました。地方自治体が文化施設を維持していくことが困難な現在においても新館建設が決まり、4000年前の縄文時代の歴史とともに、「おらあとうの村の歴史はおらあとうの手で明らかにする」とした地域の歴史も語り継がれていくことでしょう。

参考文献
富士見町教育委員会編『曽利 第三、四、五次発掘調査』富士見町教育委員会、1978


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