【笛吹市青楓美術館】ぶどう畑の中の最古の美術館(12) 「青楓美術館50年の歩み」を見に行く
はじめに
ぶどう畑の中にある山梨最古の美術館こと笛吹市青楓美術館ですが、10月に本年度後期となる展示替えが行われました。「青楓美術館50年の歩み~青楓美術館を彩る作品たち~」(2024.10.18~3.16)として青楓美術館を代表する作品を展示しています。
そのうち消すいいわけ
本年もよろしくお願いいたします。2025.1.2
年始早々、溜まっていた記事で恐縮です。正月なのに青楓美術館とお思いでしょうが、本稿の後半には「寅さん」48人のマドンナがあります。正月といえば昭和時代は「寅さん映画」だったはずです。少々こじつけはありますがよろしくお付き合いください。
本年度、前期(第1回、及び第2回)の展示はこちらをご覧ください。
青楓美術館
笛吹市一宮町はぶどう畑と桃畑の広がる果樹栽培の地域です。青楓美術館はそんなぶどう畑の中にある小さな美術館です。
開館は1974年(昭和49年)10月23日ですので本年50周年を迎えます。現存し通年開館している美術館としては山梨県内で最古の美術館です。
笛吹市一宮町の出身の小池唯則氏(1903年~1982年、明治36年~昭和57年)が郷里に文化をとの思いで私財を投じて美術館を建設しました。
小池氏は友人の紹介で津田青楓(1880年~1978年、明治13年~昭和53年)と出会い、交流を重ね青楓の作品を集めていきました。美術館の作品は信頼できる方法で収集したいと考えていたからです。美術館を作ることを知った青楓からは、売って建設費用の一部にするようにと40点の作品が寄贈されました。しかし、小池氏は売るなんてもったいない、この作品を展示しようと美術館の名称も「青楓美術館」にする旨を快諾してもらい自身の故郷に青楓の美術館をつくりました。青楓からの寄贈は最終的に70点になったといいます。
しかし、青楓が美術館を訪れたのは開館の一度だけです。青楓はこの時90歳を超えていました。4年後、青楓は天寿を全うしました。
小池氏も1982年(昭和57年)に亡くなりました。美術館は遺族から一宮町(当時)に寄贈され、町村合併を経て笛吹市青楓美術館として現在に至ります。
寄贈も多く現在では900点以上の作品、資料を収蔵しています。この先も収蔵作品が増えていくことが予想されます。
津田青楓
津田青楓(1880年~1978年、明治13年~昭和53年)は、画家、書家、歌人です。また二科会を設立した人物の一人です。
夏目漱石の著作『道草』『明暗』の装幀は青楓の手によるものです。また、漱石の絵の師匠でもあります。
青楓の活動は4つの時代に分けられます。古い年代順に並べると
・図案の時代
・洋画の時代
・日本画の時代
・書の時代
となります。明治から昭和を生きた青楓ですが、時代ごとにまったく異なる分野で作品を残しています。「漱石に愛された画家」「背く画家」など異名も氏の人生を物語っているようです。
青楓美術館50年の歩み
「青楓美術館50年の歩み~青楓美術館を彩る作品たち~」(2024.10.18~3.16)を紹介します。
前期「青楓の四季」の「春・夏編」「秋・冬編」に続く、後期の展示替えです。ただし、青楓と漱石の繋がりを示す本の装幀作品は継続して展示されています。本展は「青楓美術館を彩る作品たち」の副題のとおり、青楓美術館の代表作を一堂に展示しており、ダイジェスト的な作品展です。
1階展示室の作品
展示室の撮影は出来ませんので、図録などの画像から可能な限り作品を紹介します。
まず1階の展示室入ると目に入るのは、300号の大作《疾風怒涛》です。本展のメインビジュアルにあるとおり、この美術館の代表作のひとつです。青楓がプロレタリア作品を描いていた時代のもので、荒々しく波の打ち付ける海は左翼的な思想を取り締まる当局に立ち向かう意思を表したかのようです。
《疾風怒涛》に向かって、右手には妻敏子や花を描いた日本画が並びます。
《津田敏子像》は最初の妻を描いた作品です。
《青山白雲(篭中紫陽花図)》は、篭に入った水色の紫陽花に青山白雲で始まる画賛が添えられています。
《壺西洋芍薬》は、スケッチ画のように軽いタッチで水彩で色がつけられています。過去の解説に依れば、つぼみの状態から満開になった花までを描き、花の一生を描いたといわれます。
《薔薇》は、40代の作品で水彩画のような淡いタッチながら薔薇は朱色です。
続いて、《疾風怒涛》の対面側の壁に作品が並びます。
《顔》は洋画で1907年 (明治40年)、青楓は農商務省海外実業練習生としてフランスに3年間留学しており本格的に洋画家としての道を歩み出した時代の作品です。
《皿絵(試作)》制昨年不詳は、八角形の皿の図柄を描いたものです。
《花(八角硝子器)》は、青楓美術館の2023年前期展示「花のあるくらし~津田青楓が描く花の世界」のメインビジュアルとなった作品です。
《静物画(花瓶の花)》は関東大震災後、京都に移った時代の作品です。
ガラスケース内には、漱石などの本の装幀作品が展示変え前より継続展示されています。
青楓は漱石との交流とともに多くの装幀を手掛けました。いずれも大正時代の出版です。
『明暗』1917年(大正6年)
『社会と自分』1917年(大正6年)
『行人』1924年(大正13年)
『彼岸過迄 縮小版』1917年(大正6年)
また、漱石に関する青楓の著作と装幀本もあります。
津田青楓著『漱石と十弟子』世界文庫、1949年(昭和24年)
森田草平著『夏目漱石』1942年(昭和17年)
森田草平著『続夏目漱石』1943年(昭和18年)
注目すべき作品は、津田青楓著「老松町日記」です。
青い表紙に盾に大きく茶色い文字で「老松町日記」とあります。実は、本の体裁をしていますが、日記帳に自前で表紙をつけた本です。青楓は1911年(明治44年)に小石川の老松町に転居しており、同年漱石と知り合い、木曜会に出入りしています。1913年~1914年(大正2年~3年)の日記のうち漱石に関する部分を1961年頃になって書き写したものとのこと。手作りのため一冊しか存在しない貴重な本です。
和室の作品
1階の畳の展示室には《青楓張り混ぜ屏風》が置いてあります。張り混ぜ屏風とは様々な絵や書、短冊等をスクラップ帳のように貼交ぜた屏風の事です。良寛の歌などが張られています。美術館の開館当日(1974年10月23日)青楓は屏風を車のトランクに積んで持参したのです。
和室の壁のガラスケースの中には掛け軸が展示されています。
《青楓手紙柿》は書簡を軸装したものです。
《父一葉像》は、生け花去風流の家元である父・西川源兵衛(一葉)を描いたもので、父の略歴も記されています。
《良寛和尚の像》は晩年の作品です。江戸時代の僧で歌人、書家であった良寛の作品に34歳で初めて出会った青楓は晩年まで、良寛に傾倒します。そして良寛のように書を楽しみ、良寛に関する著書も出版しています。本作は晩年まで青楓が手元に置いておいた作品です。
和室の覗きケースの中には良寛の足跡を調査した時の画帳があります。
『良寛遺跡一』1971年頃(昭和46年頃)
『良寛遺跡二』1971年頃(昭和46年頃)です。
1967年(昭和42年)に『良寛父子伝』の執筆を思い立ち、良寛ゆかりの地や新潟を訪れた時の画帳です。
階段の作品
2階へ進みます。階段の壁には全国から寄せられた絵手紙が「第11回しあわせ絵手紙展」として11月に入れ替えられ公開されています。
踊り場には天井まで続きそうな額に入れられた長いフランス刺繍が2点あります。青楓がフランス留学時代に製作したものです。
フランス刺繍と並んで、青楓と最初の妻山脇敏子と3人の子供(長女から三女)たちとの家族写真があります。青楓は5人の子供をもうけましたが2人(長男と三女)は夭折しています。また山脇敏子とは大正13年に離婚しています。
画像が用意できませんでしたが、踊り場から2階へ向かう階段には花を描いた日本画があります。
《春夏秋冬》制作年不詳
《青柳》制作年不詳
《梅花と歌》制作年不詳
《あざみ》制作年不詳
階段を上りきったとこにあるケースには落款印があります。
2階展示室の作品
2階の展示室に入り向かって左側の壁に昭和初期の洋画が並びます。
《黒服の男(習作)》、《宮津海岸家族海水浴の図》、《変電所の庭》は震災後京都へ移った時代の作品です。
《待つ女》《青楓49歳像》は、青楓が京都にて洋画塾を7年ほど開いていた時代の作品です。《待つ女》の背景には「洋画塾々生徒募集」の看板が描かれています。
代表作《犠牲者(習作)》があります。《犠牲者》は獄死した小林多喜二をモチーフに、拷問を受けた運動家の姿を描いた作品です。しかし《犠牲者》の制作中に青楓は警察に逮捕されています。その後、青楓はプロレタリア運動と関係を断つことを表明、洋画も洋画塾もやめ、二科会からも脱会しています。その後は日本画、南画へ転向するのです。
《夏目愛子像》があります。漱石の四女を描いたものでこちらも著名な作品です。
こちらは1984年(昭和59年)に一宮町に移管された開館当日の写真ですが、赤いワンピースの女性が「愛子」の娘さん(つまり漱石の孫)で来賓として招かれています。
覗きケースの中には《亀吉生家京都中京区立花道界隈の由来》と 《画巧潜覧》があります。
《亀吉生家京都中京区立花道界隈の由来》は、晩年生家を回想して描いたものです。生け花去風流の家元の父を略歴とともに描いたものです。
《画巧潜覧》は、狩野派の絵師大岡春卜の名画の縮図集《画巧潜覧》を青楓が写本したものです。
続いて、入口から向かって右側の壁にも洋画が並びます。特に裸婦を描いた作品があるのですが、地元の小学生が自由に見学に訪れることから裸婦の展示機会は少なかったのです。
《花時京洛風景》も京都での作品で風景画です。
続いて、隣の壁には、一見洋画のように見える日本画が並びます。
《静物》《伊万里壺》などは、油彩で描かれているので洋画のように見えます。しかし落款や印があることから日本画だといいます。
《金地菊花》は、金のもみ紙に油彩で描いています。こちらも洋画のように見えますが日本画です。
洋画のように見える日本画の下にある覗きケースには青楓が手掛けた図案集と陶板画が並びます。
有名な図案集『うずら衣』『落柿』上下があります。
さらに青楓3番目の図案集の『華紋譜(花の巻)』『華紋譜(楓の巻)』があります。
陶板画のほうは画像が用意できませんでしたが、
《陶板(金魚)》制作年不詳
《陶板(是非)》制作年不詳
《陶板(白椿)》制作年不詳
の3点です。
あと館内には「50年の歩み」パネルにしたものがありますが特に案内が無ければ見過ごしてしまうほど目立たないものでした。
ぶどう畑のアートギャラリー 「48人のマドンナ 中島敏夫作品展(顔絵展)」
「ぶどう畑のアートギャラリー」は、受付前のエントランススペースをサークルや個人の作品の発表の場として月替わりで提供する小さなギャラリーです。本ギャラリーのみの観覧であれば無料です。(まとめて3回分の作品を紹介します。)
9月の作品展は「48人のマドンナ 中島敏夫作品展(顔絵展)」(2024.6.5~6.30)です。昨年に続き3回目となる中島敏夫氏の今回の似顔絵は
似顔絵ですが、なんと映画「男はつらいよ」のマドンナをすべて似顔絵にするという面白い試みです。
48人分展示するためフレームは中島氏が自作したそうです。
こうやって見ると同じ女優さんが別の役で何回も出ていたり、浅丘ルリ子さんのようにリリー役で3度出ていたりと面白いです。
1作、2作、3作(光本幸子、佐藤オリエ、新珠美千代)
4作、5作、6作(栗原小巻、長山藍子、若尾文子
7作、8作、9作(榊原るみ、池内淳子、吉永小百合)
10作、11作、12作(八千草薫、浅丘ルリ子、岸惠子)
20作、21作、22作(藤村志保、木の実ナナ、大原麗子)
30作、31作、32作(田中裕子、都はるみ、竹下景子)
13作、14作、15作(吉永小百合、十朱幸代、浅丘ルリ子)
23作、24作、25作(桃井かおり、香川京子、浅丘ルリ子)
33作、34作、35作(中原理恵、大原麗子、樋口可南子)
16作、17作、18作、19作(樫山文枝、太地喜和子、京マチ子、真野響子)
26作、27作、28作、29作(伊藤蘭、松坂慶子、音無美紀子、いしだあゆみ)
36作、37作、38作、39作(栗原小巻、志穂美悦子、竹下景子、秋吉久美子)
40作、41作、42作(三田佳子、竹下景子、後藤久美子)
43作、44作、45作(夏木マリ、吉田日出子、風吹ジュン)
46作、47作、48作(松坂慶子、かたせ梨乃、浅丘ルリ子)
映画好きの知人に言わせるとこのリストのほうが手が込んでいるとか。
中島氏に偶然お会いしたら、自作のフレームがもったいないそうでさらに大勢描くテーマを検討中とのこと。それなら赤穂47士はと提案しましたが似顔絵にならないです。あとは秋元康プロデュースアイドルでしょうか。
ぶどう畑のアートギャラリー 「アート松下塾の仲間たち 2024」
10月の作品展は「アート松下塾の仲間たち 2024」(2024.10.2~10.31)です。アート松下塾は笛吹市石和町にある絵画教室です。障がいのあるなしに関わらずアートの能力を引き出す指導をされているとのこと。
ぶどう畑のアートギャラリー 「フルーツ・パラダイス 木村美代子写真展~風と土と水と~」
11月の作品展は「フルーツ・パラダイス 木村美代子写真展~風と土と水と~」(2024.11.2~11.30)です。今回初めて展示を行う山梨市在住の写真家です。
青楓美術館では初の展示ではあるものの、経歴を見ると各地で個展を催されてきた方です。
木村氏の家は果樹農家とのことで、こうした身近な風景を切り取っておられるのでしょうか。モノクロ作品は1990年代からのものだそうです。
一部カラー作品がありますが、近年のものだといいます。
おわりに
「青楓美術館50年の歩み」というタイトルはやや無理があるように感じました。普段出している作品のオールスター展示なので、名品コレクションといったところでした。ただ、青楓美術館が持つ、著名な作品はほんとが見られるのでこの展示期間に見るのがお得だと思います。
参考文献
図録『青楓美術館図録』青楓美術館、1983
図録『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』芸艸堂、2020