【韮崎市民俗資料館】縄文、新府城、「花子とアン」の家
はじめに
韮崎市の七里岩台地の上に所在する「韮崎市民俗資料館」は、1980年(昭和55年)開館と古くからある資料館です。
敷地内には、倉座敷や水車が移築されるとともに、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」(2014年放送)のオープンセットが移設されています。
韮崎市内でもこの辺りは縄文時代の遺跡が多く分布する地域です。また、少し離れていますが武田氏最後の居城として築かれた新府城があります。
七里岩台地
七里岩大地は、長野県富士見町から北杜市小淵沢を経て韮崎までのおよそ30キロメートルに渡る大地です。韮崎市中心部で平和観音の建つ崖がまさに台地の突端部分です。富士見町の井戸尻遺跡、北杜市の金生遺跡、韮崎市の坂井遺跡など縄文時代の遺跡はこの台地の上にあります。
また、韮崎市は県下有数のサッカーの町です。民俗資料館近くの韮崎中央公園競技場はJ2ヴァンフォーレ甲府の練習場としても利用されています。
さて、韮崎市街地から民俗資料館へ向かうには、旧甲州街道から分岐する県道17号(七里岩ライン)の急な勾配を一気に登ります。かつては青坂ループ(七里岩ループ)という細い道路で登っていましたが、2012年(平成24年)より新しい道路に付け替えられました。それでも雪が降れば登れない車が出るほどの勾配です。登りきると韮崎中央公園が見えてきますので、手前を脇道に入ります。この脇道が青坂ループから来ていた道です。
廃道との分岐を左に進み「花子とアン」の看板が見えたら奥に入り到着です。
韮崎市民俗資料館
韮崎市民俗資料館については、展示がホコリをかぶり、セロテープが変色していた時期もありました。しかし近年は「にらみん」の愛称とともにブログなどを使い、縄文や新府城など時々にあわせた情報発信に余念がありません。
左右対称の建物はどことなくデザイン建築風です。中央のエントランスを入るといきなり「祝」連発の案内ボードがあります。
何が「祝」かといいますと、縄文ドキドキ総選挙2022で「ミス石之坪」がグランプリです。上位入賞の顔ぶれや、2位の「パンタロン土偶」を4倍近く離しているところから何やら組織票の香りがしますが、詮索しないでおきましょう。
次に、徳島堰が2022年(令和4年)10月に国指定の登録記念物に指定されました。徳島堰は350年前に掘られたおよそ17キロメートルの農業用堰です。市文化財担当者の見解によれば、立梅用水(三重県松阪市)、二ケ領用水(川崎市)と並び日本三(大)堰といわれます。
ともかく徳島堰は、南アルプス市の扇状地の渇水を改善して現代においては果樹地帯に貢献しております。山梨県として初の登録記念物になりました。
さらには、大河ドラマ「真田丸」(2016年放送)のイベントで訪問したキャストのサインがあります。栗原英雄さん(真田信伊役)と迫田孝也さん(矢沢三十郎頼幸役)のサインです。栗原英雄さんは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の大江広元役です。事務室の前にも別のサイン(栗原さん)とお礼状(迫田さん)があります。
また、資料館は日本遺産『星降る中部高地の縄文世界』の「三十三番土偶札所巡り」の御朱印の札所にもなっています。
新府城
さらに資料館は「続100名城スタンプラリー 」127番「新府城」スタンプのほか、ご城印(300円)が購入できる施設になっています。
また、武将印として「武田勝頼」(300円)らが購入できます。筆者が訪問した時は、殿方の来館者はご城印目当ての方ばかりでした。
武田家最後の居城とされる新府城は、資料館から2キロメートルほど距離にあります。1973年(昭和48年)国の史跡に指定されています。
信玄亡き後、長篠の戦いで敗れた武田勝頼が新たな居城として七里岩の要害に築城しましたが、織田軍の進軍に対して、勝頼自らが城に火をかけ岩殿城(大月市)へ移りますが、道中で謀反にあい勝頼は自害したと伝わります。
大河ドラマ「真田丸」の冒頭で新府城落城が描かれました。また、武田勝頼の人物像が見直されるきっかけになりました。
展示に関しては、新府城のジオラマと年表があるだけです。新府城の発掘は近年とくに進められていて、新しい発見もあるはずですが発掘成果に関しては過去にミニ展示が行われただけで常設展示にはありません。
考古資料
展示室は2階です。バリアフリー対応ではありません。トイレについては、洋式に改装されていますが、大型トイレはありません。
階段を上ると正面に土偶総選挙グランプリのミス石之坪」が独立ケースで鎮座しています。1996年(平成8年)石之坪遺跡から発掘されました。頭部と右腕以外の部分は見つかっていません。
「ミス石之坪」の近くの壁面ケースには日本遺産『星降る中部高地の縄文世界』の案内とともに、後田遺跡の土器や土偶や石棒が並びます。
とくに目を引くのが仮面土偶「ウーラ」です。1988年(昭和63年)に発掘されました。にこやかな笑顔の仮面が特徴です。配石遺構から見つかっているため祭祀で役割を担ったのでしょう。パネルにて復元で補った部分が分かります。
2階展示室のほぼ半分が考古資料ですが、石器時代、縄文時代、弥生時代と時代別にケースに展示がありますが、やはり圧倒的に縄文時代が多いです。
まず旧石器時代についてはナイフ形の石器を紹介しています。
縄文時代については、石之坪遺跡、坂井遺跡、後田遺跡、宮ノ前遺跡などの出土品が並びます。およそ年代順の展示です。
展示は石之坪遺跡の量が圧倒的に多いです。
独立ケースには大型の抽象文(みづち文)土器があります。
縄文時代後期は埋め甕など大型化してきます。
さらには弥生時代、古墳時代、奈良・平安時代と1ケースずつ展示が並びます。
奈良・平安の展示です。宮ノ前遺跡(韮崎北東小)で発掘されたものが中心です。山梨では平安時代に甲斐型土器という土師器が造られていました。
文字の書かれた墨書土器も多数発掘されています。
ところで、資料館の近くには、坂井遺跡があります。縄文時代中期の遺跡で志村滝蔵(1901年~1971年・明治34年~昭和46年)が、1923年(大正12年)頃から所有の畑を発掘したものです。1932年(昭和7年)には鳥居龍蔵を招いて指導を受け、その後も発掘を続けました。1950年(昭和25年)坂井考古館として土蔵を建設し出土品を展示・公開してきました。山梨県における、埋蔵文化財の展示施設の始まりと言われています。
坂井考古館は、筆者も以前おじゃましたことがあります。見学には事前の問い合わせが必要です。
民俗資料
残り半分は民俗資料が展示されています。民家の復元のほか、
韮崎は宿場があったため、籠(かご)、朱印を運ぶ駕籠(しゃが)、馬つなぎ石などがあります。
京升と甲州升の比較なども比較があります。京升がおよそ1.8リットルに対して甲州升はおよそ5.4リットルとたいへん大きなものが使わていました。
壁には甲冑など武田に関する展示と「花子とアン」にちなんで「赤毛のアン」が出版された昭和27年頃の品を展示しています。
「懐かしい道具たち」として、用途別の展示をしています。これはたいへん分かりやすいです。また戦時中の品々の展示もこちらにあります。
水車
資料館を出ると裏には移築した水車と倉座敷、ロケセットがあります。
まず、はじめに目に入る水車ですが、たいへん大型のものです。明治初期から近くの黒沢川で使用されたもので、河川改修により役目を終え、1981年(昭和56年)に資料館へ寄贈されたものです。
旧小野家倉座敷
甲州財閥と呼ばれた実業家の一人、小野金六(1852年~1923年・嘉永5年~大正12年)の生家にあった倉座敷を1985年(昭和60年)に移築したものです。
小野金六は富士身延鉄道(現在のJR身延線)の建設に尽力したうちの一人です。金六の生家は甲州街道に面した「富屋」という作り酒屋でした。
蔵座敷は明治初期の建築と推定され、公開されている一階は二間で奥の座敷が書院様式となっていて接客用に用いられていました。二階は非公開ですが、保管庫として使用されていたことがパネルで紹介されています。
ドラマ「花子とアン」(2014年)では蔵座敷の外観を劇中の教会として撮影に使用されました。ロケの写真と教会に見立てるための看板と十字架のマークが残してあります。
昭和天皇の玉座
倉座敷の奥に白い布をかけた椅子があります。「昭和天皇の玉座」とあります。1986年(昭和61年)に国民体育大会(かいじ国体)が開催された折り、サッカー競技の観戦で昭和天皇が着座されたものです。前述の韮崎中央公園は国体に合わせてサッカー会場として建設されました。
花子の生家(ロケセット)
ドラマ「花子とアン」のロケ終了後、解体される予定であった生家のオープンセットが移設されています。元は甲府市内の山間部に設営されたものです。前述の倉座敷の縁で韮崎市がもらい受けたそうです。
オープンセットは遠くから見る限りでは分かりませんが、障子や建物はプラスチック製だったり、汚し塗装がなされています。
ドラマにはなかったはずの農機具なんかも追加して置かれていていい感じではありますが、数年経ち劣化が見られます。
おわりに
古いながらも、盛りだくさんな資料館といいたいところですが、残念な点がいくつかあります。
前述のとおり、ご城印、武将印を扱っているのに新府城についての展示も解説も希薄です。
徳島堰もについても解説や展示はありません。(徳島堰については「南アルプス市ふるさと伝承館」に詳しい解説と展示があります。)
つまり、PRはしているのですが、展示は旧来から持っている資料のみで行っているように見えます。城や縄文などで来館者も増えているように見受けられますので、この機会に新たな常設の資料を期待いたします。