【藤村記念館】旧睦沢学校、甲府駅広場に建つ擬洋風建築
はじめに
甲府駅北口広場の一角に洋風の建物があります。この建物が「藤村記念館」です。
この建物をよく見ると瓦屋根であるなどして、洋風というには少し無理があります。それは、この建物が明治期に各地で建てられた日本建築に西洋建築を似せて造った「擬洋風建築」の建物だからです。
特に山梨では官公庁の建物をはじめ、学校建築に擬洋風建築が多く採用されていました。この藤村記念館も学校建築のひとつです。
甲府駅北口
甲府駅は山梨県の玄関口といえる駅ですが、ロータリーや駅ビルのある南口に対して、北口は裏口でありもとは閑散としていました。2000年代に入ると国鉄の跡地活用のため甲府市による再開発計画がありましたが、石垣の一部が発掘されるなどしたことから計画を変更、甲府城の一部を新たに復元した歴史公園やイベントなどに使える広場が整備され、さらにレトロ調の商業施設甲州夢小路をオープンさせるなどして賑わいをもつエリアにしました。
藤村紫朗
藤村記念館の藤村は「とうそん」ではなく「ふじむら」と読みます。
明治時代初期の県令(現在の知事に相当)である藤村紫朗(1845年~1908年・弘化2年~明治41年)に由来します。
1873年(明治6年)政府により山梨県権令(のちに県令)を任じられた藤村は、殖産興業と教育政策を柱に山梨の近代化を進めました。
殖産興業においては、製糸業を大規模に進めるための県勧業製糸場を創設したり、いまのワイン醸造の走りとなる葡萄酒醸造場を開設するなどしました。
教育分野においては、「学校の建物に関する通知」によって擬洋風の校舎を作るよう推奨しました。藤村が進めた擬洋風の学校建築は共通の特徴を持つことから現在では「藤村式建築」とは呼ばれています。現存している藤村式建築の建物は5棟のみであり、藤村記念館はそのうちの1つです。
藤村式建築
擬洋風建築については、明治期の建築で洋風を真似た、あるいは洋風と和風が混在している、などが主だった特徴で日本各地に見られます。近年、松本市の開智学校の校舎は国宝に指定されました。
さて藤村式建築の特徴ですが、建物全体の形は、左右対称の2階建てで1階中央に入り口と2階部分にパルコニーがあります。また屋根の上に突き出た太鼓楼という塔部分があります。また上空からみると建物は正方形の形をしてます。こうした姿から「インク壺」とも言われていました。
前述のように、県内では明治初期に藤村式の学校建築が作られたのですが、しかし、建築の費用は地元負担でした。そのため、地元の有力者が資金や土地を提供したり、住民たちが無償で建設作業に従事するなど、決して楽なものではありませんでした。それでも、西洋式を取り入れた学校は地域の誇りとなり、県内各地で建てられた藤村式の校舎の数は100を越えました。
しかし、その後、疑洋風建築は和風建築に比べ、工事費が高くつくことや耐久性が劣るということにより方針は転換されています。そうしたことから藤村式は、明治初期の短期の間に山梨県各地で作られた学校建築なのです。
藤村記念館(旧睦沢学校)
もとは1875年(明治8年)に睦沢村(現在の甲斐市亀沢)に建てられた睦沢学校の校舎でした。1957年(昭和32年)まで睦沢小学校として利用されていましたが、老朽化のため取り壊されることになりますが、地元保存会が立ち上がり、1966年(昭和41年)武田神社境内に移築され、甲府市に寄贈されました。
翌年1967年(昭和42年)には国の重要文化財に指定されています。
時は流れ、2000年代に入り甲府駅北口の整備事業に伴い、北口のシンボルとして2010年(平成22年)現在の場所に再び移築されました。
一階部分
見学は無料なのですが、受付のスタッフから「スタンプ」ですか「ご朱印」ですかと聞かれます。「スタンプ」というのは「日本100名城」スタンプのことで至近に甲府城があります。というよりもこの駅一帯がもとは甲府城の城内なのです。「ご朱印」は日本遺産『星降る中部高地の縄文世界』の「三十三番土偶札所巡り」で32番になっています。
藤村記念館の所有は甲府市教育委員会ですが、運営は指定管理者のNPO法人甲府駅北口まちづくり委員会が行っています。
まず初めに左側に藤村紫朗に関する展示があります。
一階の奥の部屋は広く、講演会などのイベントなどにも使用されているスペースです。部屋の手前にある等身大パネルに驚いてよく見れば、太宰治(一時甲府に居住)と村岡花子(『赤毛のアン』の翻訳者、朝ドラで全国的に有名に)でした。
また、武田氏館跡(現武田神社)の模型があったり、「ご朱印」No32後呂遺跡の人面装飾付深鉢形土器と考古資料が少しだけ展示されていました。考古の展示はこれだけなので縄文ファンで「ご朱印」を求めて来たお客さんはがっかりしそうです。
根津ピアノ
窓ぎわに根津ピアノがありました。根津とは「鉄道王」とも呼ばれ東武鉄道の再建事業に関わった山梨市出身の根津嘉一郎(1860年~1940年・万延元年~昭和15年)のことです。
根津は山梨県内の全小学校にピアノやミシンを寄贈したことが有名で、近年は県内各地で根津ピアノが発見され修繕されているものが多いです。このピアノもそのうちの一台です。
二階部分
二階へは靴を脱いで急な階段を上ります。木の机が並び教室の様子が再現されています。かつてこの建物が武田神社境内にあったときは教育資料館として展示を行っていましたのでその名残りかもしれません。
さらに、上階の太鼓楼へ上がるための階段はありますが、先へは立ち入りできません。
おわりに
立地の良さや無料で見学できることもあり、観光シーズンには見学者が絶えません。また、広場に建築物があることで人目も引くこともあるのでしょう。
取り壊しを逃れた睦沢学校の校舎は、2度の移築を経て藤村の名を冠してにぎやかな場所で余生を送っています。
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