【山梨県立美術館】特別展「米倉壽仁展 詩情のシュルレアリスム画家」を見に行く
はじめに
ミレーの美術館こと山梨県立美術館では、年に4回の特別展を開催しています。11月に入り、新たな特別展「米倉壽仁展 透明ナ歳月 詩情のシュルレアリスム画家」が始まりました。
甲府市出身で明治から平成の初めまで活躍した米倉壽仁ついて、山梨県立美術館の所蔵作品を中心に紹介するとともに、米倉が影響を受けた国内外の画家の作品も紹介しています。
なお、山梨県立美術館の概要については拙稿をご覧ください。
屋外の気になるもの
美術館のある芸術の森公園で筆者が少しだけ気になったものを紹介します。今回は終わりを迎えている紅葉と彫刻です。
駐車場のイチョウは、有名スポットになっているのですが、ほとんどが散ってしまいました。それでも、園内には赤く染まった木々が残されていました。
再び美術館の周りに目を向けます。「バルビゾンの庭」と名付けた庭園があります。奥にはミレーとルソーの記念碑があります。
記念碑は、フォンテーヌブローの森の自然保護に奔走したミレーとルソーを称えたものです。フォンテーヌブローの森にあるものと同じ型から鋳造されています。
正面の広場には、美術館が開館した当初からムーアの彫刻がまさに横たわっています。
美術館の前のケンタウロス像は近代彫刻の巨匠の一人、アントワーヌ・ブールデルの作品です。《弓をひくヘラクレス》が有名ですが、この作品は瀕死の状態のケンタウロスを表現しています。
ほかの屋外彫刻なども随時紹介していきたいと思います。
米倉壽仁展
今回の訪問は「米倉壽仁展 透明ナ歳月 詩情のシュルレアリスム画家」(2022.11.19~2023.1.19)の鑑賞です。
米倉壽仁(1905年~1994年・明治38年~平成6年)は甲府市出身のシュルレアリスム画家であり詩人です。米倉の代表作《ヨーロッパの危機》は山梨県立美術館で収蔵していますが、米倉壽仁の個展は美術館が開館した翌年の1979年(昭和54年)以来となります。実に43年ぶりの開催となります。
米倉の収蔵作品のほか、米倉が影響を受けたサルバドール・ダリやマックス・エルンストなど海外のシュルレアリスム画家の作品や、米倉と交流のあった福沢一郎、北脇昇の作品なども展示されます。
シュルレアリスム
シュルレアリスムと聞いて、真っ先に思い浮かぶのがサルバドール・ダリ(1904~1989)の絵ではないでしょうか。
筆者は門外漢で聞きかじりの情報なのですが、フランス語で「シュール」=超または過剰な、「レアリスム」=現実ということで、「強度な現実」「現実の追求」ということになるようです。「現実の追求」とは、精神の内面など人間の無意識の領域を描こうとするものとのこと。
確かに、目に見える現実は氷山の一角のようなもので、見えない内面のほうがはるかに大きい。筆者も大学の講義で少しだけかじったフロイトやユングの心理学を思い出しました。
第1章「夜明けの先觸れ(さきぶれ)」シュルレアリスムの衝撃 1920年代~30年代初め
展示は、米倉壽仁の人生をたどりながら6つの章で構成されます。全体で70点の作品です。山梨県立美術館の所蔵作品を中心に著作権が許されたものは撮影可能になっています。
米倉壽仁は1905年(明治38年)に甲府駅前の甲陽館米倉旅館の次男として生まれました。甲府中学(現甲府一高)を卒業し、名古屋高等商業学校へ入学します。甲府にいた頃より文学を志す青年でした。
名古屋高等商業学校では、のちに詩人でフランス文学者となる山中散生(1905~1977・明治38年~昭和52年)と出会います。また、村山知義(1901~1977・明治34年~昭和52年)の著作に触れ、絵画への興味を触発され、日本に紹介されたばかりのシュルレアリスム絵画を独学で学びました。
卒業後は郷里山梨で高校(現在の甲斐清華高校)の教員を勤め、そのかたわら1930年(昭和5年)前衛絵画集団「六人社」を結成します。
1931年(昭和6年)、第18回二科展に《ジャン・コクトオの「夜曲」による》が初入選します。これは米倉が好んだジャン・コクトーの詩「夜曲」からインスピレーションを受けて作品にしたものです。
これにより米倉は画家になることを決意をします。なお、この作品の原画は消失していて、1979年(昭和54年)に本人の手により復元されたものが展示されています。
また、米倉はシュルレアリスムの第一人者、福沢一郎(1898年~1992年・明治31年~平成4年)と知り合います。1935年(昭和10年)、第5回独立展に「窓」が初入選すると教員を辞めて、画業専念のために上京します。
会場には、ダリ、エルンスト、福沢一郎などシュルレアリスムの代表作家の作品が展示されています。
第2章「透明ナ歳月」シュルレアリスム絵画の模索 1930年代後半~40年代初め
東京へ活動の場を移した米倉は、福沢一郎たちと1938年(昭和13年)シュルレアリスム絵画の団体を結成します。社会は日中戦争へ突入し、国家統制が進む中でシュルレアリスムの模索をした時代でした。
また、米倉は詩作も続けていて雑誌に寄稿したり、表紙を手掛けることもりました。1937年(昭和12年)に詩集『透明ナ歳月』を発表しています。
会場には、戦争に対する不安や批判を込めた代表作《ヨーロッパの危機》を始め、旺盛に活動したこの時代の作品が並びます。この頃米倉はダリの提唱したダブルイメージによる手法が見られます。
砂浜と卵の殻を描いていて対をなす作品があります。《破局》と《早春》でそれぞれに詩が添えられています。
「卵が壊れるような人生の挫折」《破局》
「卵が割れれば新しい人生の出発」《早春》
他にも1930年代後半の作品が展示されています。
第3章「振動する振子」前衛画家たちとの交流 1930年代後半~40年代
米倉は、さまざまな前衛画家との出会いました。
福沢一郎をはじめ、「美術文化協会」などで交流した北脇昇、寺田政明、浜松小源太、眞島建三、古沢岩美といった画家たちです。
戦争という社会情勢の中で、前衛画家たちはそれぞれの表現を追究しました。
会場には、米倉と交流のあった前衛画家たちの作品が展示されています。
第4章「美術は人間性である」戦後の変化 1940年代後半~50年代
戦後、米倉はすぐに創作活動を再開します。しかし、方向性の違いなどから所属していた団体は分裂状態にありました。米倉は自身が中心となり、1952年(昭和27年)画家グループ「サロン・ド・ジュワン」結成します。この団体が活動の基盤となりました。また30年にわたり活動を続けました。
戦後の作品はダブルイメージの手法は変わらないものの、作風に変化が現れています。まず、構図が複雑化してきます。そして、これまでの透き通る青は消えて、幻想的で湿潤な雰囲気へと変化しています。
また、詩においては宮田栂夫や曽根崎保太郎といった山梨の詩人たちと交流を続け装幀を手掛けるなどしています。
会場には、戦後の米倉の作品が並んでいます。《黒い太陽》はビキニ環礁の水爆実験で被爆した第五福竜丸を描いた作品です。
《愛と仏頭》はサロンド・ジュワン第4回出展作品、仏教的要素をモチーフとした作品も現れています。
《核-天空の祝祭-》はサロンド・ジュワン第10回出展作品
第5章「和して同ぜず」 サロン・ド・ジュワンの画家たち 1950年代
「サロンド・ジュワン」とは、フランス語で6月の展覧会を意味します。「サロンド・メイ」に習って命名したものです。資料として結成趣意書、サロンド・ジュワン展の招待状などが展示されています。
サロンド・ジュワンには、9名の画家が参加しました。
会場には、サロンド・ジュワンに参加した作家たちの作品も展示されいます。
第6章「人生より芸術は永い」 終わらない探究 1960年代以降
1960年代以降も「サロン・ド・ジュワン」への出品を継続したほか、文字や幾何学的な図形や線を多用するなど探究は終わりませんでした。
また「山梨美術協会」といった郷里の絵画団体の発展にも寄与しました。1979年(昭和54年)山梨県立美術館にて個展が開催されましたが、その後も晩年まで制作を続けました。
展示には、大きな梵字にて、吉祥天を表した作品があります。ほかにも文字や記号をモチーフにした作品が見られます。
ミュージアムショップ
ミュージアムショップも特別展に合わせて米倉の作品やシュルレアリスムがありました。ダリの似顔絵のTシャツがいかしてる思いました。
おわりに
43年ぶりの個展ということから分かるように、山梨において米倉壽仁は取り上げられてきていないように思います。平成時代まで存命であり山梨の画檀に貢献したにもかからず不可解です。
それでも、筆者には米倉のことがわかるよい機会になりました。ちょうど年末年始で多くの来館者に見てもらえることでしょう。
ところで、富士山の見える窓から、富士山が見えていました。意外とこの窓から富士山が見える機会は少ないのです。筆者が撮影していたら、他のお客さんも来てカメラを向けていました。
終わる紅葉の木々も入った一枚が撮れました。
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