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母性という神話-面の作品について-

泥眼(でいがん)の面に出会う

今年の春に金沢の能楽美術館を訪れた際、泥眼(でいがん)と呼ばれる面に出会いました。白目部分を金で彩色してある女の面で、彩色には金泥(金箔を細かく練り潰し、微粉末状になった物)を塗るので泥眼と呼ばれています。通常の眼球の白い部分が金色に輝いているので異様な雰囲気を漂わせている面です。能面の世界では金色は人間を超越した存在であることを示すそうで、泥眼の面は正気を失い嫉妬で溢れる生き霊、または成仏し人間と鬼(神)との境を示す女性の表情ともいわれています。この面は生き霊役にも菩薩役にも使われます。
女性の悪行にも善行にも両極端に同調する泥眼に私は興味を持ちました。

母性という神話(Myth of Motherhood)

私はその金色の目に「母性」を重ね合わせています。

エリザベート・バダンテール著、「母性という神話」(1998年筑摩書房)は「女性としてこう生きるべき」という古い呪縛から解き放してくれました。
本の内容を端的に触れると、母性が普遍的で本質的な女性の特性ではなく、歴史的・文化的な背景から生まれた概念であることを17~18世紀のフランスの子育てを例にあげ、明らかにしています。母性を「本能」とするのは、父権社会のイデオロギーであり、近代が作り出した幻想であると彼女は指摘しています。近代日本でも国力(兵力)を上げるため、「良妻賢母」というプロパガンダを作りだし、女性は家庭に入り子供を増やし育てるべきだという概念が形成されました。

私の母は専業主婦でした。ですが副業をしていたり教育熱心で厳しく、父の方が比較的子供の面倒を見てくれていたように思います。それが私の心中で燻り続けていました。いわゆる「良妻賢母」的な母ではなかったから「私は母に愛されていないのだ」そう思い込んでいたからです。
大人になったある日、分かち合わないと後悔すると思いその気持ちを母へ打ち明けました。彼女はこう言いました。
「そうだったのねごめんなさい。でもね人生一度きりの子育てだもの、どう育てたらいいのわからないもの。一生懸命だったのよ。そんな上手くいかないわよね。」
その時の彼女はいわゆる「母親」ではなく、一人の女性としての母でした。
私は自分自身が幼年時期に良妻賢母を肯定する絵本、テレビ、雑誌などで作られた母親像に思考が誘導されていたこと、自立したい希望と子育てと諦め、そして社会のプレッシャーに打ち勝つために夢中で生きてきた母の気持ちがその時はじめて理解できたように思います。今では不器用に無我夢中で育ててくれた母をリスペクトしています。子供を愛しみ育てることは大事だし素晴らしいこと。私自身は子供を産みませんでした。子供を産むことを選ばなかった女性は母性のかけらもなく、世の中では価値がない存在なのではないかと自分自身で圧をかけ、いたみを抱えた時期が長かった事も否めません。
「母性という神話」はそんな時に出会った本でした。

幻想から逃れるために

私も母もその神話に苦しめられてきたのです。
すべての女性には母性が備わっているはず。だから家事や育児をこなし家庭を守れるよね?そうするべきよね?という「良妻賢母」の幻想(呪縛)から逃れられず苦しんでいる(苦しんできた)女性達は私たちを含め、多かったのではないでしょうか。それは無言の苦しみだったはず。
優しく善良ないわゆる聖母のような存在としての面と、それを選択しなかったまたは自由が与えられなかった女性の苦しみ歪んだ面(「社会」からすれば悪行とでもいいますか)。私は能の泥眼面の悲しみと怒りと祈りと諦めのような金色の目付きに母性を投影せざるえませんでした。

では、狂気にも聖なるものにも変化する泥眼(母性)の女性は一体誰の目線なのでしょうか?女性だけにとどまらず、社会で決められた性の役目を果たさなければならないという幻想に私たちは翻弄されてはいないでしょうか?

現在でもつらい気持ちを抱えている人がいるのであれば「自由に生きて大丈夫」というメッセージを込めこの作品を制作しました。たくさんの蛾(呪縛)が顔にこびりつき囚われたあの顔は私であり、母なのです。
(結構怖いから、母に言ったら嫌がられるかも~笑)
そしてあなた自身なのかもしれません。

※この作品は2024.9.5~9.15まで東京、西荻窪にあるギャラリー蚕室の面がテーマのグループ展に出品します。

母性という神話-Myth of Motherhood-
68x47cm シルクにゴールドワーク刺繍,スタイロフォーム 
2024

参考文献
金沢能楽美術館 (https://www.kanazawa-noh-museum.gr.jp/)
母性という神話 エリザベート・バダンテール  鈴木晶訳 1980 筑摩書房

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