【旅エッセイ14】伊豆の踊り子と浄蓮の滝
川端康成の「伊豆の踊子」は、主人公である【私】が自らを孤児で歪んだ人物なのだと悩み苦しんでいる作品だった。
太宰治の「人間失格」も、同じように主人公である【自分】が他人との違いにもがき苦しんでいる作品だった。
文学の舞台を訪れると、作品と作者のことに考えが及ぶ。主人公が悩み苦しんでいたり、社会に対して馴染めない人格をしているのはやはり、作者の自己投影なのだろうか。
でも、彼らはどれだけ悩み苦しんだとしても、地位と名声を得ている。死後何十年と経っても読み継がれる名作を世に遺している。
私も以前は、小説家を目指していた。
子供の頃からずっと小説を書いていた。けれど、書いた作品が出版社に認められることはなかった。
足りなかったのは才能か努力か、それとも熱意か技術だろうか。十数年、書き続けても受賞することはなく、処女作でデビューする年下や流行作家になる同年代を横目で眺めるうちに嫌気がさした。才能と努力を認められて活躍している人たちを、素直に応援できない。そんな自分の醜さに辟易する。
私はこんなにもちっぽけで、嫉妬深い人間なんだな。そう思って全てがイヤになる時期があった。何も成し遂げられないまま続く自分の人生も、息苦しい都会の空も、何もかもがイヤに思える。
旅の魅力に取り憑かれたのは、ちょうどその頃。憂鬱に苦しんでいたある時のこと。
何となく海へ行った。
海へ行って波の音に耳を澄ませた。
ぼんやりと田んぼを眺めて、揺れる稲穂を見ていた。
「そういえば子供の頃から、私は自然が好きだったな」と、思い出した。
それからは色々な地方を旅して、色々な景色を眺めた。
何千年、何万年もかけて生まれた自然の景観を観ていると、承認欲や名誉欲に駆られて躍起になっていた自分を忘れられる。成功者に嫉妬してしまう醜い自分が消えていく。
叶わない夢だったけれど、小説家を目指していたことを今は後悔していない。夢に破れて傷付いたおかげで、旅という新しい楽しみに出会えた。
写真は、伊豆の踊子の舞台になった天城。浄蓮の滝で撮った一枚。
滝の音が、私の悩みや苦しみまで一緒に流してくれるような気がした。