死後の魂の行き先①
霊魂の肉体脱離
人が非常な高熱に浮かされるとき、たとえば、チブスなどのような病気の際、おうおう熱のために一時、霊魂が肉体を離れて、離れてといっても、全然縁を切るわけではなしに、霊魂と肉体とはやはり繋がりをもって霊界にさまようということは、よくあることでありまして、熱に浮かされた人のなかには千人に一人ぐらい、あるいはそれ以上あるかもしれませんが、自分が霊界を見、それを記憶している人がよくあります。亡くなった人に遇い、あるいはきれいな草原に水が
流れておって花が咲いておったとか、現界とちがった所に行ってきた、という話をする人がおうおうにしてあるのであります。
それから皆さんは、火の玉が飛んでいるのを追いかけてみたり、あるいはそれを叩いたりしたところが、夜が明けたら、ある家の人が傷を受けておったとか、あるいはびょきしたとか、急に気絶したとか、そういうような話、あるいは物語などをお読みになったことがおありではないかと思いますが、肉体を離れた霊魂を追うというと、ある家にはいって行く、その家をのぞいて見ると、その家の人が、いま非常に怖ろしい夢を見たとか、散歩しておったら怖ろしいものが棒で叩いて来たから逃げてきた、と言うているのを聞いて、追うて行った人は非常に気味悪がったとか、そういう話もおうおうあります。
人間が睡眠のあいだにでも、魂の一部が脱けて歩いてゆく、それが或る霊夢になる。自分の行かんと熱望している所へゆき、また亡くなった人に会い、ふつうの雑夢とはちがった、非常にハッキリした感じをもつことがあります。
夢にもいろいろありまして、ただ暑いとか寒いとか、いろいろな刺激によって見るのは、いわゆる五臓六腑のわずらいというものであるが、そういうのではなく、実際に或る霊界とか、亡くなった人の霊姿に接して、それが印象づよく記憶に残っているというような夢がありまして、これはたいてい、将眠時、将醒時に多い。これは皆さまにもあろうと思います。普通の雑夢とはちがった、眼がさめてもマザマザとおぼえている。年が経っても、そういう夢はハッキリと憶えているものであります。たいていは夜の明け方などに見がちであります。特に信仰的な人が、何事かを一生懸命で考えている場合には、そうした夢はよく見ることがあるのであります。そういう時にもかならず魂の緒というて、条が、線が、緒が、その肉体につながっているのであります。
死んだ魂と生きた魂との比較は、赤い火の玉は現界に肉体をもっている魂で、お月さまみたいな青白色をしているのが、肉体を現界に持っていない魂であります。
臨終について
昔から、生命のことを魂の緒といい、魂の緒が切れるなどということをよくいいますが、魂の緒は実在しています。これが切れてしもうたら死ぬのである。しかし、その緒も一本ではなしに二本も三本もあるのです。これが全部切れねば死ねないのであります。これが全部切れたら肉体はモウ戻らん。臨終に心臓がコトッというのは、いちばん最後の緒が切れたときであり、それで昔から「コト切れる」という。
人間が、臨終が近くなった、いわゆる、もう死期が近づいたという頃になると、肉体が非常に弱っているからして、霊魂がフワフワと出て歩きだす。それで「いろいろな夢を見た」とか「こんな所に行った。誰それに会った」「お迎えが来た」とか、そういう現界人には理由(わけ)のわからない、
戯言(たわごと)と思うようなことをよく病人がいうものであります。これは錯覚でいっているように思いますが、決してそうではなしに、本人としては霊界の一部を伝えている時があります。また非常に魂の脱けやすい一種の特質、体質の人があって、こういう人は、家におって坐っている会いだでも「眠くなった」などというておるうちに魂だけが脱けて、あっちこっちを回って帰ってくる、これは稀ではあるがあります。そういう人は、しじゅ現界とは変わった、そういう所を見て来ているわけである。
人間の臨終の近づいた時には、いちばん身体のよわる時でありまして、そういう時には、その人に徳があるか、徳がないかによって、そこに集まる霊の種類がちがってくる。その人に徳があれば善霊がこれを守りに来、悪徳の人へは悪霊がくる。また善い人であろうが悪い人であろうが、この人を愛していた霊界に行っている肉親の者は、その者が亡くなるときには迎えにくる。そうして善い方の霊は頭の方へ来て、悪い方の霊は足の方へくる、これが通則であります。これは頭の方は光って(精気が充実して)いるからであり、善い霊はかならず明るい光る方を、なんとなしに好むから、
善い霊の立つ所はかならず頭部であり、悪い方の霊は明るい所はきらいでありますから、暗いところから襲うてやろう、引っぱってやろうというので足部にくる。
亡くなった時には刀をおいたり、鋏をおいたりする習慣(ならわし)があります。これはどういうわけかというと、刃物というものは魔物除けであり、悪い霊魂が来ぬように、またこの肉体に入れ代わって悪い霊魂がはいてこないようにというためです。死人の真っ暗もとばかりでなしに、何かわけのわからん病気にかかった時などにも、よく刀をおくものである。これも邪気をはらうためです。
遺骸の硬軟と死後の行先
人間の徳と言うものは、その人が亡くなる時に善い霊魂に囲まれるか、悪い霊魂に囲まれるかで大体わかります。善い霊魂に囲まれれば、非常にやすやすと息を引きとり霊界へ行ってしまう。
あとに残す肉体の容貌は生前以上に、にこやかに神々しいものである。
俗に「やわらかい肉体は極楽にゆき、固い肉体は地獄にゆく」というのは、こはどういうわけかといえば、やわらかい状態は安穏な状態でありまる。楽にしている時は肉体がやわらかい。緊張するとき、驚愕するとき、苦しむ時には、かならずどこかn固くなるところがあります。なんともいえんいい気持ちになって、病気のことも忘れて楽に浄らかに出てゆく時には、やわらかい肉体を残してゆくものであります。非常な大病にかかった人でも、死んだあとで容貌がクルッとかわって、天人みたようにきれいだという時には、かならずいい所へ行っております。これと反対に、非常に苦悶して、息を引きとるあで苦悶して、死んだあとに硬直した屍体をのこしているのは、あまりいい所へは行っていない。安心立命し、善い霊につれて行かれ、楽であるならば、あとに残る屍体や顔つきというものは、楽なやわらかいものとして残るはずでああります。出るときに非常に怖ろしいものに引っぱって行かれ、あるいは不安な感じで出た霊魂であれば、その出しなの執着、驚愕、苦悶の情が屍体にのこっておって、こういう肉体は棺に入れることさえ非常にむつかしい。
これは往々あるのであります。徹底した信仰の持ち主は、かならず死後の肉体はやわらかであると言うていいのであります。小児の屍体の硬直したのは、きわめてまれであります。
これに反して、非常にむつかしいことをいい、えらい地位にある人でもーー宗教的な意味においてでもーー案外死後に固い身体をのこしているという人がおうおうあります。これは信仰がほんとうにわかっておらず、生活のために世をごまかしておったに過ぎないのであります。
こういうことは事実の問題であって、理屈でもなんでもない。皆さんでも、死というものにしじゅう接せられる機会があり、また接せられた人もあろうと思いますから、私のいうことが嘘かほんとうか、ためしてごらんになったらいいのであります。
『信仰叢話』、出口日出麿著