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【人生ノート324】

肉体は霊流の管

昨今、気温が急に四、五度降った。あまり早い。も一度酷暑があって、今度ほんとに涼しくなるのだろう。すべての事件に、予報と本報という二つの前ぶれがある。寒くなる時は、まだその時より早く急に一度に寒くなり、次に普通に復し、やがて本物になる。暑くなる時でもおんなじだ。

神業の発展もそうであり、人間一個の魂の進展について考えもそうである。一さいは螺旋形に循環しつつ進展して行くものらしい。

いわば人間の肉体は一つの生きている管だ。その中を精霊が流れているのだ。たまっているのだ。管が健全でなくては、折角、精霊が流入してきても外へ漏れざるを得なくなる。つねに管を清浄にして、

霊流を、われとわが手で妨げぬように注意すべし。

ちょっとの努力で直ぐ得らる。骨惜しみをせぬくせをつけるべし。

実際、悶えるのは執着があるからだ。一さい空の境地に立って、思う存分、その時次第に自我を発揮することさえできたら、この世は面白いに違いない。

小さい利欲に大きい自己を囚らえられて、あがき苦しんでいる人々ばかりじゃ。われとわが魂にいろいろな重い錘をたく山にくくりつけて、「アア苦しい苦しい」といっているのだ。

なろう放題、あろう放題、行きあたりバッタリズムほど面白いものはない。

とはいえ、他人に迷惑をかけることは絶対にいかぬ。ここに多少のジレンマはあるが、これは致し方はない。

ただ、いかなる逆境に処しても、平気の平坐の心持ちになり得る修養だけが必要だ。書物の上ではない、

実践の巷に立ってだ。

『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著

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