【あ行の部】 いけない恋心
有馬翔(ありま かける)が『電脳少女』と呼ばれる少女と出会ったのは、五歳になった日の翌日のことだった。
夜に行われる細やかなバースデーパーティーを心待ちにし、そわそわと落ち着かなかった前日に比べれば、何の変哲もない日だった。ただ、そう、初めて迎えた“父親と二人きりの誕生日”が想像していたよりも愉しくて、そして宴を終えた空間が想像以上に寒々しかったから。普段は決して口にしない我が儘を零してしまったのである。
「ぼくも、いっしょに行きたい」
玄関で「じゃあ翔、行ってくるよ」と頭を撫でる父のスーツの端を僅かに握りながら発した翔の声は、実に弱々しく頼りないものだった。けれど、テレビの音声も、秒針が時を刻む規則正しい音色さえもしない静寂の中では、子供の小さな声など十分に響いた。
まして、さほど広くない玄関である。眼前の男の耳に、翔の声が届かないわけがなかった。
息子の我が儘に、父親は眼を瞬かせた。
優しく髪を梳くように動いていた手が止まる気配に、翔は腹の底に冷たいような、苦しいものが堪るのを感じた。ああ、どうしよう。わがままを言ったから困らせただろうか。怒らせて、しまっただろうか──
翔の不安は杞憂に終わった。
父親は単に『自己主張の少ない息子の我が儘』に酷く驚いただけで、機嫌を損ねたわけではないらしかった。むしろ、機嫌は頗る良くなった。後に分かったことだが、自身の研究のアレソレを我が子に披露できるかもしれない機会が降って湧いてテンションが上がってしまったらしい。
父親は部屋着のままだった翔をさっと抱え上げると、そのまま家を出て、仕事場へ向かうために待たせていたタクシーに乗り込んでしまった。
そして出会ったのが、『電脳少女』だった。
父親の職業は“医者”だと聞いていたので、翔はてっきり病を患った人たちを助ける“お医者さん”だと思っていた。けれど、実際には少し違った。
「ここで待っていなさい」と最初に通された部屋は、壁という壁を書物が入ったスチール製の棚で覆われ、同じくスチール製だろう冷たく武骨な事務机にキャスターが付いた合皮の椅子しかない部屋である。最初こそ興味津々だったが、当然の事ながら、五歳児だった翔はすぐに飽きてしまった。
なので、こっそりと部屋を抜け出した。医者らしき人も看護士っぽい人も、患者と思われる人さえ歩いていない廊下を、翔は息を潜め恐怖を押し殺しながら勘で進んだ。
辿り着いた先に、求めていた人物がいた。
入り口に背を向けた父親は、何だかよく分からない沢山の機械に囲まれ、何かに対峙して何かの作業をしていた。誰かに話しかけているようだが、その声が小さいのと、機械音が邪魔をして何を言っているのかは分からない。けれど、不思議な気配を発しているのは分かった。不穏で不気味と言っても良かった。
しばらくすると、父は部屋の奥に消えてしまった。
そのことによって、翔の瞳に対峙していた何かが映った。
そこには人形のようなものがあった。
豪奢な椅子に腰掛けたそれは、若い女の形をしていた。
小さなフリルや細かなレースがあしらわれたワンピースは、透けるほど薄い布を使用しているお陰で躯のラインが表れていた。緩やかに膨らんだ胸元と引き締まった腰に目を奪われ、流れるように膝から下の、剥き出しの素足に視線を這わせる。細くしなやかな両腕は、袖の役割を担う布の上からでも明確に分かった。
翔は無意識のうちに、ほぅと息を吐いた。コンピューター画面や不可思議な装置の淡い光源に照らされて、その躯はより一層魅力的に、且つ妖しい雰囲気に満ちていた。
誘われるように、翔は瑞々しい脹ら脛に小さな手を伸ばした。が、触れることは出来なかった。
「翔」
背後から、男の声がした。
固い声音のそれを、翔はよく知っていた。ぴくりと肩を震わせて、恐る恐る振り返る。
果たせるかな、視線の先には父がいた。険しい表情を浮かべて歩み寄る姿に、翔は今度こそ怒られると思った。引っ込めた手をぎゅっと握りしめて俯く。「ごめんなさい」の声は情けなく震えた。
「……なぜ謝る」
「……部屋から出て、ここに来て、触ろうとしたから」
「……そうだな」と言った父は、翔の頭に手を置いて、黒髪を梳くように撫でる。
「ここには沢山の機械がある。触れても何の問題もないものもあるが、中には危険なものもあるし、壊れてしまうとすごく困るものもある」
「だから、あの部屋にいるように言ったんでしょ?」
翔は書物だらけの部屋を思い出しながら言った。
「そうだね、それもある」と父は苦笑した。
「でも、それだけじゃない。……翔は、彼女が恐ろしくないか?」
問いかけに、翔は思わず顔を上げて父親を仰ぎ見た。
父親は翔の背後へ眼を遣っていた。翔はその視線の先を追った。そこには、先ほど触れようと手を伸ばしたものがあった。彼女が恐ろしくないか──脳内で質問を反覆して、ふるりと首を横に振る。
「こわくないよ。なんで?」
「だって──」
頭がないから。
確かに、父の言うとおりだった。
翔が触ろうとした人形のような女の躯には、頭があるべき場所に何もなかった。正確に言えば、首から上が綺麗に切断され、そこから数本の管が伸びていた。管は傍らの装置に繋がれている。よく観察してみると、管には液体のようなものが流れているようだった。
普通なら、怖いと怯えるべきなのかもしれない。泣いて恐れるべきなのかもしれない。
けれど、翔の心に恐怖心が芽生えることはなかった。それどころか喉が酷く乾くような、脳の中央部が熱く燃えるような感覚が広がる。
「頭がなくてもこわくない。こわくなくて、きれいで、その……」
両手を握りあわせてもじもじとする息子の心境を、男は完璧に読みとったようだった。言い淀む翔へ微笑みながら「触ってみるか?」と言うと、脇の下へ手を差し込んで小さな躯をひょいと抱え上げた。
「え!? い、いいの?」
「勿論。但し、優しく触りなさい」
翔は父の言う通りに、肘掛けに乗せられた手を──すぐ傍にあった手の甲に、そっと手を伸ばして重ねた。彼女の手は恐ろしいほど肌触りがよく、肌理細やかで柔らかく、温かかった。
生きている、と思った。頭が無くて管が生えていても、彼女は生きていた。
皮膚の下の肉と、流れる血流を感じながら、翔は父に問う。
「この人はだれ?」
「……とても美しい少女だよ。私たちは『電脳少女』と呼んでいる」
「でんのう?」
「そう。頭は失われてしまったが、その代わりに永遠の命と美を手に入れた。やろうと思えば無限の知識さえ手に入る、完璧な存在だよ」
肩越しに振り返る。翔の丸い茶色の瞳に、恍惚な表情を浮かべた男が映った。その表情は初めて見るものだった。まるで父ではない、知らない人間のように翔には思われた。
「おしゃべりできる?」
「お喋りは出来ないな、まだ目が覚めてないんだ。……翔は、彼女とお喋りしたいかい?」
「うん」
ほぼ即答だった。素直な子供の答えに、男は軽快な笑い声をあげると「分かった」と頷いた。
「彼女が目覚めたら、翔と話をさせてあげよう」
「ほんとに!?」
「ああ、きっと良い刺激になるだろうからね」
そんな約束をした二年後。
翔は『電脳少女』と初めて言葉を交わした。といっても翔の声を『電脳少女』に繋がれた集音機が回収し、スピーカーから少女の声が流れるだけのものである。頭がないから当然、顔がない。どこを見れば良いのか分からないし、視線を合わせたくても出来ない。
けれど、翔は『電脳少女』と言葉を交わすことで、至高の幸福を得ることになる。
そして実感する。
僕は彼女を心の底から愛している──と。
幼く拙い恋心だと大人に笑われても、有馬翔は本気でそう思っていた。
(続)
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