【短篇】無実の証明
過失運転致死傷、救護義務違反などの罪で、一人の女が捕まった。彼女は逮捕前も、逮捕時も、公判が始まってからも一貫して『無罪』を訴えた。
何故なら、彼女は人を殺した自覚が皆無だったからである。
実際、彼女は人を殺してはいない。
人を殺したのは、彼女の車に打つかった国産ハイブリット車だ。
あの運命の日、彼女は軽自動車を運転していて、ただ右折しようとしただけだ。見通しの良い直線道路。こちらは青信号で、対向車線の信号も青だった。彼女は右折しようとした。対向車線から車が来ていたけれど、減速ないし停車すると思った。けれど、対向車はどちらも怠った。
対向車は彼女の軽自動車に打つかった。打つかった反動で、対向車は進路を変え、信号待ちしていた人達に突っ込んだ。お陰で死傷者が出た。残念なことに、死んだのは保育園児だった。
自分の愛車が盛大に破損した上、目の前で人が怪我したことに、彼女は動揺した。後日、保育園児が死亡した事実に心を痛めた。車の修理費用の総額を知り、暫く警察に押収されることも知った。ああ、なんて可哀想なのだろう!
病院から解放されたタイミングで、保険会社に連絡しようとした。が、その前に警察署に連行された。
そのまま逮捕された。
全く納得いかなかった。あの日あの時、右折しようとした瞬間、一時停止をしなかった所為で、対向車に打つかった? もしも私が停止していたら、対向車は歩行者に突っ込まず。保育園児も死ななかった?
なんだそれ。
そんなの結果論だ。言い掛かりだ。
対向車が停車していれば、最悪減速していれば、私は打つからなかった。対向車が減速さえしていれば、あの事故は避けられたのだ。
それに、仮に避けられず起こったとしても、歩行者を轢いたのは私じゃない。歩行者を轢き、保育園児を殺したのは私の車じゃない。対向車だ。対向車が保育園児を痛め付け、滅茶苦茶にしたのだ。寧ろ私は被害者だ。
私は何も悪いことしてない!
彼女は事情聴取で、弁護士と面会した部屋で、裁判で、声高に訴えた。
私は悪くない。全然悪くない。私は誰も傷付けてないし、殺してない。傷付けたのも殺したのも対向車の運転手だ。あいつが悪いんだ。あいつさえ減速していれば。右折する私に道を譲れば、誰も死ななかったんだ!
私は悪くない!
裁判官は決断を下した。
そうですね。確かに、被告人は悪くありません。あの日あの時、対向車の運転手が「あの右折車が曲がって来るかも」と思っていれば。慎重な『かも知れない』運転が出来ていれば、対向車は減速ないし停車して、被告人の車に接触しなかったでしょう。さすれば、接触の激しい衝撃で、歩行者に突っ込むこともなかった。保育園児も死ななかった。被告人が“安全に運転する義務”を怠っていても、対向車さえ“それ”を守っていれば、この事故は起きなかった。
「そう! その通りです裁判長!」
被告人、静粛に。
我々は、被告人の主張を全面的に認めます。極めて分かり易い表現を用いるなら、被告人、貴女は何も悪くない。悪いのは対向車の運転手。つまり、他人です。貴女は、何も、悪くない。
彼女は無罪放免で釈放された。
清々しい青空を見上げ、新鮮な空気を吸い、吐き出して。思う存分笑った。腹を抱えて、遥か彼方、南方の故郷まで届きそうな声量で笑い転げた。私は無実だ! 何にも悪くないんだ!
工業地帯から流れ出した煙や排気ガスに犯されていたとしても、拘置所の空気に比べれば、娑婆の空気はマイナスイオン溢れる森林のそれよりも美味しかった。無実を勝ち得た事実が良いスパイスにもなっていた。
その後、彼女の生活が順風満帆だったかと言えば、否だ。
まず、彼女の母親が誰かに殺された。腹を切り裂かれ子宮が摘出されていた。子宮は未だに発見されていない。
彼女の母親を殺した犯人はスッキリした面持ちで、殺害の動機を以下のように供述している。
「あいつは殺人鬼を産んだんだ。あいつが彼女を産まなければ、保育園児の未来は奪われなかった。誰も傷付かなかった。対向車の運転手も人生を壊されなかった。彼らの人生や未来を潰したのは、彼女を産んだ母親の所為だ。悪い奴は罰さないと」
その次に、彼女の父親が殺された。犯人は取調室で涙ながらに語った。
「あの人は、殺人鬼を身篭らせたんです。もしもあの人が、彼女の胎内に射精しなかったら、きちんと避妊をしていたら。誰も悲しい思いをしなかった。辛い思いをしなかった。喪われた命は、今も強く輝いていた筈なんです。なのに、避妊ぜず、中出しして妊娠させたから……孕った子を産み落とさせたから……殺人鬼が生まれた」
更に、刑務所内で自殺した際には以下の遺書を遺している。
「ごめんなさい。弟の所為で、殺人鬼をこの世に産み出させて。本当にごめんなさい。弟の罪も、弟を手に掛けた罪も、姉である私が一人で償います」
両親を殺された彼女は大層心を痛め、犯人の供述に憤った。
「他人の親殺しといて、なに『自分は悪くない』みたいな巫山戯た態度とってんのよ! 可哀想面してんのよ! 私を産んだお母さんが悪い? 殺人鬼が生まれた? お母さんを孕ませたお父さんが罪? 意味分かんない。私の両親は悪くない!」
いくら喚いても、彼女の主張が認められることはなかった。誰も聞く耳を持たなかった。
唾液を撒き散らし、SNSを駆使して怒りと恨みの言葉を吐き続けている間にも、『彼女』と過去に関わりを持ち『彼女』を形成した人間は次々と命を落とした。祖父、祖母、叔父、叔母、従兄弟、学生時代の友人、元カレ、元同僚、元不倫相手、恩師、ゴミ捨て場で頻繁に出会すおばさん、マンションの管理人。
自分は死にたくない──理不尽な理由で人が彼女を避けるので、近所の猫を可愛がった。毎日餌を与えていた黒斑の雄猫も、姿を見せないと思ったら死んでいた。車に轢かれたらしい。
「酷い。酷すぎる。私が何をしたって言うんだ! 何でお父さんとお母さんが殺されなきゃならないの。親戚も友達も、猫も……何で。なんで! こんなのあんまりだ。みんな何も悪くないのに。私は殺人鬼じゃないのに。私は悪くないのに!!」
数ヶ月後の夏。間伐と洪水と大火災と大地震とが起こり、ある土地は焼け野原になり、ある土地は津波で壊滅した。更に全世界で気温が急降下して氷河期状態になり、某国がミサイルを発射して某国が核爆弾を落とした。
地球の声が聴こえる何某は言った。
「地球に人間が居なければ、居たとしても最小限の数に止めていれば、こんなにも環境が悪化することは無かったのに。悲しむ人も、血を流す子供もずっと少なかったのに。強引に右折してきた軽自動車に接触した車が、歩行者に突っ込んで尊い命が喪われることも無かったのに……あの子が生きていれば地球環境もまだマシだったのになあ……けれど、文明や科学技術が進歩してしまったから……。とどのつまり地球の存在が悪いのかな……火星や月にも迷惑掛けてるもんな……」
何某が嘆き悲しんだ数秒後、地球は砂の城が掻き消えるかの如く無音で消滅した。
(了)
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