【あ行の部】 頭のない少女
武藤アスカ(むとう あすか)にとって、世界は『自分を中心に回るやさしい宇宙』のようなものだった。
誰も彼も、何もかもが彼女の思い通りだった。
アスカが「欲しい」と言ったものは何でも手に入ったし、行きたいところは何処にでも行けた。それが他人のものであっても、国の重鎮ひいては天皇陛下でさえ立ち入りの禁じられた領域であっても関係ない。かたちの良い薄い唇が紡いだ要求には誰一人として逆らうことが出来なかった。逆らう術がなかった、といっても良かった。
別に、彼女の両親や一族が、恐怖の存在だからというわけではない。
単純な話、武藤アスカという存在が恐ろしいほど美しく、そして悍ましいぐらい魅力的だったのだ。
アスカを「現代の白雪姫」と譬えたのは、果たして実父だったか義父だったか、それとも彼女に魅了された数多の男たちだったか。アスカは憶えていない。
けれど、アスカは「現代の白雪姫」という名称をいたく気に入っていた。
アスカの見目は、まさに白雪姫のように美しかった。
艶やかな墨色に近い黒髪に、未踏の深雪のような白い肌。色素の薄い琥珀色の大きな瞳は星を閉じこめたように煌めき、縁取る睫毛は影を落とすほどに長い。唇の桜色は美しさの中に可愛らしさと慎ましさを添え、隙間から覗く小さな白い歯は規則正しく整列している。
体躯は成長するに従って健康的に細く、四肢はしなやかに伸びた。先端に桜貝を乗せた指は白魚のようだった。足の幅は実に控えめで、甲はなだらかな山を描き、踝の隆起もうっとりするほど完璧だった。
唯一の欠点といえば左目尻にぽつんとある小さな黒子だった。が、それでさえアスカを官能的に魅せるアイテムの一つとなった。
アスカは、自分の顔面偏差値が常人よりもずっとずっと高いことを、重々理解していた。
教えてくれたのは実母だった。
アスカの実父は、娘に向ける愛情と呼ぶには遙かに度を越えた情をアスカに注いでいた。実父の眼には情欲が渦巻き、肢体に這わせる手には淫らな感情が乗せられていた。
実際に熱を押し付けられる幼子でさえ分かったのだ。妻であり母親である女は、容易に男の劣情を感じ取っただろう。
実母は幼いアスカを「売女」と罵った。
まだ五歳を少し過ぎた頃だった当時は、一体全体なにを言われているのか分からなかった。けれど、母が激怒し、酷い言葉を放っているのは分かった。
我が子に対して聞くに耐えない罵詈雑言を浴びせる女に、実父もまた激怒した。そしてアスカの眼前で罵り合い、掴み合い、殴り合った。嵐のような喧嘩は、床に横たわった女の首を、男が有らん限りの力で絞めることで終わった。
嵐の過ぎ去ったリビングルームの中心で、男は興奮状態のままアスカの小さな躯に馬乗りになった。
幸いなことに、アスカの純潔は守られた。近隣住民の通報により駆けつけた警察官によって、男の両手首に手錠がかけられたからだ。
この時、アスカは悟った。
私には人間を狂わせる力がある──と。
以降、アスカは男を惑わせ狂わせ操り、己の意のままにした。
当然と言うべきか、同性である女どもには恨まれた。酷い時には流血沙汰になることもあった。けれど、アスカは全く意に介さなかった。自身が危うい事態になれば、男どもが喜んで盾になってくれるのだ。
場合によっては邪魔者を排除してくれるし、罪も被ってくれる。
武藤アスカにとって、世界は『自分を中心に回るやさしい宇宙』
本当の世界に比べれば、それは余りにも小さくて狭い宇宙だ。
でも、アスカには全部だった。それしかなかった。
自分自身が自ら光を発し、天球上で互いの位置をほとんど変えない星──恒星で。すぐ傍にいる愚かな男も哀れな女も、みんなとるに足らない惑星。惑星は恒星の周囲を回り続け、時に従い、時に嵐を巻き起こしながら、馬鹿みたいにくるくると翻弄される。
言葉一つ、指先一つで──
そんなやさしい宇宙は、ある日突然、終わりを迎える。
恒星に向かって終焉が衝突してきたのだ。
まさに青天の霹靂だった。
雲一つない冬の青空の下、有名ブランドの新作ワンピースの上から新作のコートを羽織り、これまた新作の高級ブランドバッグを肩に掛けて、気に入りのロングブーツの踵を鳴らしながら歩いていた時のことだ。その日はパトロンとの待ち合わせが一件もない、珍しい日だった。
アスカは澄み渡る青空と、程良く冴えた寒さに誘われて、繁華街まで散歩をすることに決めた。普段ならパトロンが運転する高価な外車やスポーツカーの助手席で、キャラメルマキアートに舌鼓を打ちながら流れる景色をぼんやり眺めるのだけれど。たまには自らの足で歩き、華美な装飾にも負けない瑞々しい美を見せびらかすのも良いと思ったのだ。
世話になっている伯父の家から駅へ向かい、渋谷か台場か、あるいは銀座辺りに行こうかしら──そんな事を考えていた瞬間である。
固く重い金属同士が擦れるような、とても聞き慣れない音が聞こえた。そして誰かの悲鳴と「危ない!」と叫ぶ声も。
誰が悲鳴をあげたのか。
誰が「危ない!」と叫んだのか。
残念ながら、アスカは確認することは出来なかった。
確認をしようとはしたのだ。反射的に、声の方向に顔を向けはした。が、それまでだった。視界に対象を捉える間もなく、頭の天辺に衝撃を感じたと思ったら目の前が真っ暗になったのだ。
意識を取り戻したのは幾年も経ってからだった。
「実に不幸なことでした。偶々、偶然、きみの頭上に鉄筋が降ってきたんです」
とは、アスカの主治医の言葉である。
アスカの頭──というか頭脳では、何を言っているのか皆目見当が付かなかったのだけれど、どうやらアスカは『電脳少女』とやらになってしまったらしい。
以下は主治医である有馬勇一の言葉である。
「きみは記憶にないかもしれないけれど……いや、記憶になくて幸いなのかもしれないけれど……アスカちゃん、きみは事故に遭った。実に不幸なことでした。偶々、偶然、きみの頭上に鉄筋が降ってきたんです。あの日、外装工事中のビルの横を通ったことを憶えていますか? ……憶えていない、そう……いえ、支障はありません。そんなものでしょう」
有馬医師はリズム良くキーボードをタイピングしながら薄く笑う。
その後も、医学や化学、生物学などの知識がゼロに等しいアスカに対し、有馬医師は懇切丁寧に解説してくれた。
そこから分かったのは、事故によってアスカの脳の一部と外見の大半が潰されたこと。しかし、日常生活に必要な脳組織だけは損傷を免れていたこと。最先端の医療とテクノロジーで、有馬医師が躯と脳を生かした──正確には保存したということだった。
お陰で、アスカの美しい肢体は老いることなく豪奢な椅子に座らされ、頭部を無くした首の断面に挿された管から栄養を摂取する生活が続いている。
何年経ったのかは、数えるのを止めたので分からない。
「せんせ」
アスカが呼ぶ。
呼ぶ、という言葉には語弊がある。アスカには頭がない。
損傷を免れた脳組織は摘出後、特殊な機械に保存され、専用の装置に組み込まれた。その装置から発せられる微弱で繊細な電気により脳組織は“疑似的に”正常な活動を維持し、連動したスピーカーで受け答えをするだけにすぎなかった。
「なんだい、アスカ」
有馬は妻にも聞かせたことのない、優しい声音で応えた。白く張りのある脚のラインを堪能するように、皺くちゃの手がねっとりと足首から膝へ、太股の付け根へと這い上がる。
「わたしは、いつになったら、さんぽに行けますか」
「もう少ししたら行かせてあげよう」
嘘だ。
アスカは瞬時に見抜いた。この躯になってから、自分の願いは殆ど全部と言っても過言でないほど、叶えて貰えてなかった。それは頭があった頃には有り得ないことだった。
「いきたい、さんぽ、いきたい」
「うん。知っているよ。その代わりね、今日は紹介したい子がいるんだ」
まるで会話のキャッチボールが成立していなかった。けれど、有馬医師はマイペースにアリスが腰掛ける椅子の対面の陰にある扉に向かって「入っておいで」と声をかけた。
数秒して、陰からおずおずと姿を現した子供に、アリスは無いはずの眼を見開いて、出来ないはずの『息を呑む』行為をした。
なんと、その子供は、アスカと初対面にもかかわらず、既に恋する男の眼をしていたのだ。
アスカは無い頭を空想世界で嘆いた。
──ああ、私は頭があってもなくても男を魅了して仕舞う罪深い存在なのね!
(続)