【連作】おはようさようならを繰り返す
万年床で目覚める。瞼を押し上げた先、茶色いシミがポツポツと目に入る見慣れた天井を数秒眺めてから、若干ぼやける視界を鮮明にさせるため二度、瞬きをした。
その瞬間、私の『世界』が激変したことを悟る。『世界』自体は何の変化もない。私だけが変わってしまったのだ。脳内に押し寄せる数多の記憶は私の所有物ではないけれど、確かに私のモノだった。
そして、学ぶ。変化も大事だが不変も大切だ、と。悔いは後からするものである、とも。
現に私は後悔している。私の『世界』が変わったことを。失くしたモノを取り戻したことを。表情を失くした先生に、包丁を握らせた挙句、振り上げさせていることを。ああ、何故。不変なままで居られなかったのか。変化も不変も大事で大切で必要かもしれないけれど、私の大切な人が苦しむなら、果たして本当に大事で大切で必要なのか。私は「是」とは思えない。いやだ、いらない。
先生は言う。
「おはよう、□□」
私は応える。
「おはよう、先生。さようなら」
ゆっくりと瞼を下ろす。先生が包丁を振り下ろしたか否か、暗闇の中にいた私は知る由もない。
***
視力を焼き殺すような鋭い光を分散させるために、二度瞬きをする。それでも足りなかったので、追加で二、三度。瞼越しに眼球を擦ることによって、光線からのストレスを緩和させる。
不明瞭な視界の先に居たのは、一人の女性だった。彼女を目視した瞬間、自然と唇が「先生」と動く。が、音声として発せられることはなかった。喉が貼り付いて痛い。
何故、目の前の女性を「先生」と呼ぶのか。疑問はあったが違和感はなかった。彼女は私の「先生」だ。そんな確信があった。
その証拠に、先生は優しく微笑んで「変わらないね」と呟く。
「君は、いつ何時も僕を『先生』と呼ぶ。世界が変わっても。年号や環境が変わったって。いつだって僕は君の『先生』だ」
如何して? と首を傾げられたって、私は答えを持ち合わせていない。答えられない。
だって、世界は世界であるように。『先生』は『先生』であり、『先生』以外の何者でもないのだから。誰に何と言われても、喩え先生からの設問でも。解答は、その一言に尽きるのである。
だから私は、答えられない代わりに別の言葉を投げる。酷く掠れていたけれど、やっと声が出て嬉しかった。
「おはよう、先生」
(了)
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