【連作】角度

 未知のウイルスによる大量殺戮が発生し、世界は混沌を極めていた。
 アトリエ『ミラ』にも、その余波が押し寄せた。

 ──と言いたいところだが、それほど影響はない。

 元々、アトリエとして機能しているのかしらん? と疑いたくなるぐらい芸術活動をしている気配がないし、誰かが先生の絵を買い付けに来たことも無かったのだ。『ミラ』の中は驚くほど穏やかだった。まるで、世間から切り離された様な静けさを保った。
 先生は特別、何らかのアクションを起こしたりしなかった。創作活動に打ち込んだりせず、普段通りにエロ本を読み、菓子パンを頬張る日々。
 薄型テレビの向こうでは、
『今日は何万人感染しました!』だの
『死者が何十万人に達しました!』だの
『ワクチンの人体実験でゾンビが生まれた! ある意味有効な、不死ワクチン!』だの
『特効薬の副作用による致死率の方が、ウイルスの致死率の数兆倍!』だのとお祭り騒ぎなのに。先生は全く狼狽えない。

 まさか、これだけセンセーショナルな話題を全く耳にせず、興味関心も湧いていないのか?

 未知のウイルスに対する“恐怖”とは別物の“恐怖”に襲われた私は、先生に「怖くないんですか?」と問うた。
「怖い?」
「そうです」
「何を恐れる必要があるの?」先生はエロ本から顔を上げ、チョココロネに齧り付きながら心底不思議そうに首を傾げる。
「何って……ウイルスとか、色々」
「ウイルスを恐れたって仕様がないよ。僕達は、その手のモノには無力だ」
 ハハッと軽く笑った先生は、噛みちぎったチョココロネを咀嚼し、嚥下してから「恐れることはない」と宣言した。
「恐れても仕様がないんだから、恐れる必要はない」
「……如何いう意味、ですか?」
「そのままの意味だよ」
「……分からないです。ワクチンも、特効薬もないのに。如何やって恐れずに居られるんですか!」
 私の言葉が、アトリエ内に反響する。
 先生は少し驚いた表情を浮かべて、でも、直ぐに溜め息を溢した。酷く落胆した様子で「僕より人間らしい、傲慢っぷりだなぁ」と言い切る。「あのね、」と続いた言葉は、驚く平坦だった。

「あのね、人間が除草剤を用いて庭の雑草を排除する様に、自然がウイルスを用いて増え過ぎた人間を排除しているだけなんだよ。しかも、一部のウイルスは自然が意図して拡散させた物じゃなくて、人間が自ら起こして撒いた物だ。みんなの大好物、『自己責任』の一種だよ。だから、何も恐れることはない。今こそ自然に身を任せよう」

 なるほど、そういう角度で捉えることも出来るのか。
 感心はしても、私は先生に、正しくウイルスを恐れて欲しかった。だって、先生には出来るだけ長生きして欲しいと願っていたから。

(了)

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