他人の評価と自己表現

「表現の場がなきゃ壊れちゃう」
私が昔から思っていることだ。人と話すのは苦手、人前に出るのがものすごく好きというわけでもない、そして何よりも他人から大人しい子と思われている。そんな私は何かで自分を表現したくて、それができないのが辛くて、その手段すら思いつけないのがもっと辛くて、過ごしていた。

エレクトーンを習っていたが、決められたメロディーを先生の言われた通りに弾くのが苦手だった。従っていればうまく弾けるのはわかっていた。でも、それ以上にもっとここはどでかい音でひきたいとか、体を大きく使ってひきたいとか、自分の思うイメージではない手法で弾くことにどこか違和感を感じていた。型もできていないのに、何をいっているんだという感じだが、とかく、自分の内なるエネルギーのやり場に困っていた。

エレクトーンではうまく表現ができない私は、ダンスを習った。
壊滅的だった。発表会ではいつも端っこ。真面目に踊ってもきっとうまくできないであろうことが恥ずかしくてほとんど踊ってないのだから、それはもうしょうがない。ただただ、他人から見られる私と、自分がやりたい私が一致していなくて、さらにエネルギーのやり場に困った。

いつもいつも自分の足枷は自分だった。

他人の評価ってなんだろうと思う。
他人からのイメージと私が思っている私が表現したい私をそんなに一致させる必要があるのだろうか。でも「他人からイメージされる私」の範囲でいることはとても楽なのだ、いきやすいのだ。エネルギーが解放できなくて生きづらいことを除いては。

今も思いつくままに文章を綴っていて、なんの脈絡も文章力もないのはわかっている。
ただただ、今は自分の中の溢れるエネルギーをどこかに残しておきたくて、これをまた止めてしまったら、幼稚園の時の私から変われないから、だからとかく書いている。

せっかく学歴の暴力に入ったのだ。やっと自分のエネルギーを解放する決意ができたのだ。
今まで全部保守的に生きてきた人がそんな急に面白くも、うまくもできるはずがない。でも、すごい訳わからない失敗しながら、黒歴史を作っていきながら、それでももがいてなんか楽しいことができたらいいなと思う。

とりあえず最近はラップがやりたい。
ラッパーになりたい。なれるかな、ラッパー。滑舌の部分で問題大有りで、
やるかどうかはわからんが、とかくあと数年は自分の出せるエネルギーをいろんなものにかけてみて、生きてみたい。


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