一見独白型ショートショート 『 小説 貧 乏 』2447字
一見独白型ショートショート 『 小説 貧 乏 』
吾輩は貧乏である。而してひと口に貧乏と云ってみたところでどの程度の貧乏であるかは伝わるものではない。雨露を凌ぐことすら事欠く有りさまであるのか、糊口を潤すことすら叶わぬほどの貧困をまとい、行政をはじめ支援者たちの温かな炊き出しにその日の糧を頼る。朝から晩まで足を棒にしてシェルターを廻り、有志から寄せられた浄財寄付物品に暮らしを拠るほどであるのか。こうして眺め見ると貧乏にも様々な状況というものがあることがわかる。
なるほど。清貧というものもあるか。これなどは信仰を拠りどころとし、寧ろ自らの選択を機能させた能動的享受姿勢による貧乏といえそうだ。おおむね雨風はやり過ごすことができ、日に一度とはいえ空腹も腹八分程度におさめ、腹が減れば空腹をしのぐために温めた石を懐に抱え横になる。なんとも詫び寂が効いたこの姿などは日本の懐石料理に通じてくる逸話の一つとしても知られるが、今世にあっては貧乏とは縁もゆかりもないところにあるのが懐石料理なのではないかと巡らせると、なにやら遜るのも大概にしなはれや~と思えてくるのである。
吾輩が小学校の4…5年生の頃からだったろうか。成人するころまで吾輩の家は極貧であった。貧乏にランク付けがあるとするなら、「極貧」は最上級にランクインするだろう。そう。吾輩の家は最上級クラスの貧乏だったのである。
小学校の四年生。学校にゆけば町の顔役の息子から自治体窓口の借家家賃を払っていない窮状をクラスのなか詳らかにされ、その夜、それを父親に告げると顔を真っ赤にした父親はその顔役宅に怒鳴り込んだものか"誓願"しに行ったものか夜半に家を出たきりその夜に戻ることはなかった。今の時代であれば、改正個人情報保護法の機能により、公務員法違反であり、家主による個人情報保護法違反、プライバシーの侵害、名誉棄損、その他モロモロいかようにでも法的拘束も可能な事案であるのだが貧乏ネタを飾るに相応しい思い出だ。
一週間のうち米の飯が食えたのは、三日程度だったろう。月になおすと半月以上は米の飯が喉を通ることはなかった。米を炊けば毎度毎度6合~8合だ。育ち盛りの男の子二人。次に米が食えるのはいつになるかわかったものではなかった。餓鬼差乍らの喰いっぷり。母親がオコゲをへらでこそいでも取れるものではない。お湯を鍋底に流し込み、ふやけるのを待つとお袋は手に塩ぬっておにぎりを握る。吾輩や弟はそれを喜んで食べていた。月に数日は電気も止まった。プロパンガスも替えることができない日なども当たり前のこと。灯油も買えずルンペンストーブに薪をくべ暖をとる。
ストーブの上で湯を沸かし、味噌や醤油で味付けをした汁の中に小麦粉を練り上げた団子をおとす。米のない日の夕飯は団子汁だ。昨今では観光などで地方都市を巡ると団子汁を喰わせる食堂などをみかけることもあり、観光客が美味そうな顔をみせながらそれを流し込む姿などもみられるのだが、はて、それは美味いのであるか?と訊ねてみたくなるのである。
「兄ちゃん、今日は米あるんだべか」
「なんもよ、コメが無ければジャガイモ蒸かしてでてくるべや」
「昨日も芋だったっけさ。イモ団子とポテトサラダ」
「せば今日は団子汁かもしれねぇなぁ。帰ってきてなんか食ったのか?」
「トウキビとプリンスメロンしか食ってねぇ」
「さすがに飽きたべよ」
貧乏な家の兄弟の会話である。住む環境によっては貧乏な家の子供たちとはいえ、トウキビ、ジャガイモ、カボチャ、玉ねぎ、アスパラ、大根、メロンにスイカは季節ごとに食べ放題となる特権を有していた。住まいは概ね一軒家。他人の目や鼾や屁の音に悩まされることはない。壁が薄といったところで隣の家まで200メートル離れていた。
米が食えないこととライフラインが時おりサバゲーよろしくサバイバルラインに変わることのほかに不満はなかった。いや不満はなかったという表現は正しくないだろう。不満すら持っていなかった。寧ろ楽しんでいたといっても言い過ぎではない。
起きていると凍えるような寒さである。それは"刺さるように"という形容が相応しい北国の真冬。吐く息の湿度が掛け布団の首元に付着しそれが凍りはじめる。キャンプではない。家の中の話しである。
遮るもののない平原の中に建つおんぼろな家の内窓。月明かりが雪を照らし出すさまは色とりどりのシルクの糸を紡ぎあげた如くに艶めく。差し込む月明かりが布団の首元を闇夜に浮かび上がらせ凍りはじめた布団をキラキラと輝かせる。
「にいちゃん、なまら凍(しば)れるね。布団のえりのところシバレテきたっきゃ。ピカピカしてるさ」
「おまえ、アノラックでも着て寝とけよ。靴下履いてるか。ぼっこ手袋もはめとけよ」
「うん。おやすみ」
「……おやすみ」
思い返すと良い時代である。有難いことに吾輩たち兄弟はそんな暮らしをさせてくれた親を「毒おや」と思ったことはない。今世にあっては自慢といえるのだろう。毒おやという言葉を使ってきた人々の子供たちは、毒おやという言葉をまた受け継ぐのだろう。連綿と永遠に毒に毒された言葉が受け継がれてゆくのである。
実弟や吾輩が数年ほど行ってきた児童養護施設での食事の提供にしたところで、子供の頃のそんな経験が大きい。
「かあちゃん、おかえりー。今日ね、お米があったからご飯炊いておいたよ。カボチャも蒸かしておいた」
「そうかい、ありがとねぇ。チャンと炊けたかいご飯、何合炊いたの」
「六合炊いたよ」
吾輩がはじめてガスで炊いた六合飯。流し台にはその格闘の跡。米を研ぎ、すすぎ流し、こぼれ出した米が水にふやけて山となっていた。炊きあがった米は芯の残ったメッコ飯。それでもお袋は何も言わず夕飯の準備をしていた。
「今日の晩ごはん何ぃ?」
「今日はカボチャのカレーライスだよ」
「カボチャのカレー ?」
色見だけがカレーであったことはいうまでもない。
了
泉下の人_________実弟と両親に捧ぐ
※リハビリである。書くためのリハビリである。
なお、一部の行において誤解を生んでもつまらぬので書き加えておくが
卑下批難したものではなく、中傷を目的としたものでもないことは付け加えておく。全方向的に説教じみたことを書くつもりは無いが、言葉一つで感じられる豊かさもあるでしょう。どれほど貧乏であろうと、心だけでも豊かでありたいと願いませんか。まずは手始めに。