妖怪図鑑9:一言居士
葛城の古い神、「すべてを一言で言い放つ神」とされた一言主(ひとことぬし)を起源とする。その名のとおり、やたらとコメントしてくる妖怪だ。
とりあえず、一言、なにかを言わずにはいられないらしい。頼んでもいないのに、とりあえず口をはさんでくる。
現代の記号化社会において爆発的な増殖を示し、インターネット、特にソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で頻繁に遭遇することが知られている。
現時点では、大きく2種類の系統が報告されている。
① 巫術系:
民衆の誤謬を是正し、
高度な知性による預言や託宣を
行う(つもり)。
② 護法系:
無知蒙昧な愚民から、
素晴らしき知恵を礼賛・守護し、
怨敵・魔物を打ち砕く(つもり)。
いずれも、他者を超越する高度な知識や判断力によって、なにかしらの恩恵を与えたいと考えていることがわかる。
ただ、悲しいかな、独りよがりなのだ。
一言居士が、引き起こす怪異は、以下のようなものが知られている。
(a) 脊髄反射的で浅薄な思考。
(b) 表層的な知識。
(c) 基本的に批判的。
(d) 内集団びいき。ウチとソトに敏感。
“批判的”で“内集団びいき”ということからもわかるとおり、過剰なまでの防衛本能が生み落とした妖怪であり、その根底には歪んだ自己愛が隠されている。
つまり、一言居士とは、次のような存在である。
・自己の優位性を保つ手段として「知性」を選択した存在である。
・しかし、その「知性」が優位なレベルに到達していない。
一言居士にとっては、発言することは、結界を生み出すことに等しい。
そこに、悪意はない。
むしろ切ないまでの存在希求の声のようでもある。
しかし、存在そのものに矛盾をはらんでいる妖怪であるがため、自分の存在を高めようとあがけばあがくほど、ますます存在感が薄れていく。
最後には、姿のない声だけの存在、すなわち始祖である一言主神の神格の一つである“やまびこ”や“こだま”に類する存在へと還っていくのだろう。
松尾芭蕉の句にいわく、「物いへば唇寒し 秋の風」。
一言居士の怪異が生み出す災厄は、冷静に考えれば「秋の風に吹かれて寒い」程度のものかもしれない。
では、なぜ一言居士は、矛盾を内包した存在なのか?
その理由となる「知性が他者よりも優位なレベルに達していない」原因について見ていこう。
(1)浅薄な思考
一言居士は、発言内容よりも、発言する行為そのものが目的である。
そのため、自身の考えというよりも、所属するイデオロギーに基づく発言に終始する傾向にある。
ある特定の単語を入力すると、対応するキーワードが出力される姿は、一時代前の「人工無脳」プログラムを彷彿とさせる。
たとえば、次のような変換だ。
ほぼ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の世界である。
そこには、一片の思考すら存在していないように思える。
そのイデオロギーの一つには「常識」とされるものも含まれている。
たとえば、自由・平等・博愛というキーワードを無批判で受け入れたり、耳の大きなネズミのマスコットを見ると「かわいい!」と絶叫したりする。
「常識」には複数の価値観が混在しているため、矛盾する発言も出るが、あまり気にしていないようである。目的は他人よりも優位に立つことだからだ。
アイドルA「お気に入りの古民家カフェで、ふわふわパンケーキ♡♡」
一言居士「流行りだよねー。どこで食べても一緒じゃん」
アイドルB「NYで人気No.1のパンケーキが、いよいよ日本上陸!」
一言居士「アメリカで食べたけど、美味しかったよ〜☆」
以下は、有名な図だが、左が「平等」を示している。
彼らは、それでも「平等」を支持するだろうか?
(2)表層的な知識
あくまでも知識が目的ではない。ゆえに情報源も乏しい。
テレビやニュースサイトの情報、最近では特に「まとめサイト」が頻繁に利用されているようである。
系統的にいえば「憑依型」の一言居士、すなわち第三者である他人の主張をそのまま剽窃し、わずかにコメントを載せて紹介/共有するタイプも増加している。
都合の良いところだけ、他人の言葉を切り取って再利用する。
矛盾や間違いがあっても、自分の意見ではないのだから、責任はない。
文章を構成する労力も必要なく、知識の集積もいらない。しかも、責任も負わずに好き勝手言えるのだから、一言居士にとっては理想の環境である。
必然的に「まとめサイト」からの転載が増加する。
たとえば「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験があるが、本来であれば「生と死が混在した状態って変じゃね?」と、コペンハーゲン解釈に異を唱えるために提出された思考実験であった。
しかし、現在では、むしろコペンハーゲン解釈を説明するために引用されていたりする。
同じ思考実験が、一方では反論の材料になり、一方では説明の道具になる。
これと同様に、状況や日時、主語/目的語を曖昧にすることで、一つの事象が、さまざまな論調に利用される。
そのファストフード店で異物混入したのは、いつのことか?
疑惑の政治家の暴言は、いつ、どんな状況だったのか?
憑依型の一言居士の転載には、気をつけなければならない。
もしかしたら、意図を持って、情報をコントロールしているかもしれないからだ。
(3)脊髄反射的な批判
一言居士は、自己愛のバケモノである。
自己の優位性を確保するのに、最も手っ取り早い方法は、相手を引きずり下ろすこと。ゆえに、批判的になりがちである。
たとえば、STAP細胞について、他の幹細胞と比較したり、細胞初期化原理について説明するのではなく、割烹着や論文捏造の騒動を取り上げて、小馬鹿にしてみたりする。
扇情的なネタに飛びつき、感情的に罵倒する姿は、まるでワイドショーのレポーターのようである。
批判は、楽だ。
しかし、世界を閉ざすことでもある。
たとえば、一昔前の書籍を読んでいると、男性中心主義(家父長制)に基づいた思想が説かれていたり、あるいは仏教や神道、もしくはキリスト教などの宗教に偏った記述を見つけることは、少なくない。
それだけで「これはダメだ!」と判断し、本を投げ捨てるのは造作もないことだが、要するに、それ以外のすべての言葉を捨て去ることでもある。
本来の「批判」的態度とは、既成概念や先入観に欺かれることなく、対象を客観的に分析・検討していく思考活動のことである。
本を投げ捨てることは、「否定」や「拒絶」であって「批判」ではない。
また、一言居士は、強烈な自己愛ゆえに、相手本位で考えることが、苦手でもある。
そのため、相手の主張は、すべて「他人事」である。
なぜ相手がそのように考えたのか、その前提や背景を勘考することなく、提示された結論だけを取り上げ、自分の信念体系を基準に「否定」してしまう。
結論だけなら、いくらでも否定できる。
「鮭の塩焼きじゃなくて、ムニエルがいい!」
「品質なんかどうでもいいから、値段が安い方にしろ!」
「米軍基地なんて不要だ! 出て行け!」
要するに、サービスを受けて、選択する消費者気分なのだ。
そこに、当事者意識は、ない。
もしかしたら、小麦粉を切らしているのかもしれない。
小麦アレルギーなのかもしれない。
あるいは、魚屋のおっちゃんに「塩焼きが最高だよ!」と勧められたのかもしれない。
そういう背景を考慮せず、ただ反対するというのは、行為者として対等な関係ではなく、サービスを提供されるだけの立場、要するに受け身の立場だと勘違いしているのである。
たとえば、戦略上、最善ではなくても、現時点においては選択しておかなくてはならないことがある。いわば「布石」だ。
指定校推薦狙いで、あえてランクの低い高校に進学したり、あるいは、一人暮らしをしたくて、あえて遠距離の大学に進学したりすることもあるだろう。
しかし、一言居士には「あえて」が理解できない。
選択の根底にある、戦略やヴィジョンが理解できないのだ。
その結果、あえて打たれた布石だけを見て、「バカじゃないの?」と激しく批判してしまう。
最悪の場合、せっかくの戦略を潰すことにもなりかねない。
そこに、手を取り合って、共に歩もうとする意識はない。
キリスト教徒によるスローガンがある。
「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう。」
一言居士は、灯りをつけようとしない存在である。
■退治方法
▶︎自分が憑りつかれた場合
① 誰かを批判する記述を、一切しないようにする。
どうしても批判したくなった場合は、
直接的/具体的な批判を避け、一般論として批判する。
(たとえば妖怪に喩えてみる、など)
② ワタクシごととして共同体に参加する。
家事も当事者として。
政治も当事者として。
Goalイメージを捉え、積極的に戦略を考える。
③ 他者が、自分で考え、行動する権利を認める。
間違える権利も認める。
他人を、他人として、放っておく。
自分のものにしない。
▶︎憑りつかれた人を相手にする場合
① 放っておく。
関わらない。
論理的に叩き潰そうとしても、
イデオロギーが異なるものは
そもそも相容れない。
② 対抗しない。
そして、遠慮しない。
そこに、一言居士がいないように
いつもどおり振る舞う。